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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土湯会津道~地蔵原までの主要な道筋の変遷②

 土湯会津道~地蔵原までの主要な道筋の変遷を確認したところだが、旧国道115号線や荒井横断道路などの道筋は結構歩いている。そして、今回は県道南福島―地蔵原線を中心に歩いているということで、東西に走る道筋はなじみ深い。
 意識が薄いのが、旧国道115号線が、荒井横断道路を越して県道南福島―地蔵原線に抜ける赤仁井田―目増線の道筋だ。
a0087378_1593365.jpg それで、今回はこの道筋を中心に確かめる。
 これは、明治44年建設旧国道115号線の道筋を北側から国道115号線バイパスに向かうところだ。右手に支所や西学習センターが写りこんでいる。
a0087378_211883.jpg ここは、その115号線バイパスを超えたところから、赤仁井田―目増線の道筋を撮っている。右手のカーブしていく道筋が、戦後改修された旧115号線の道筋。
 「歴史地図」を確かめると、この二つの道筋と明治39年建設荒井横断道路とで作る三角形の場所には、旧荒井役場があったらしい。そして、明治39年建設荒井横断道路と赤仁井田―目増線に続く道筋の交差点には、次のような道標が建っていたとのことだが、現在はない。 
御大典記念
 昭和3年11月荒井村北斗会
 南土湯温泉を経て会津に至る
 東大森村を経て福島市に至る
 西土湯温泉を至る
 北佐倉村吉井田村を経て福島市に至る
 南に「土湯温泉を経て会津に至る」が案内されるとのことで、明治44年建設赤仁井田―目増線が、県道南福島―地蔵原線と交わり、そこから旧土湯道を進むように案内されていることを意識する。
 この交差については「土湯会津道を歩いてみる⑦~原宿」の目増バス停付近の道筋にかかわって整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/21869520/
a0087378_283331.jpg 今回の散策で、内と原を意識することとかかわって荒井用水の流れを書き込んだが、それとかかわるのがこの橋標柱だと思うのだが、目増橋と向田橋の二つの橋が登場するので、曖昧になっているところもある。

 大正10年6月竣工
 目増橋 距福島県元標二里十八丁四十七間九分
 向田橋 距福島県元標二里十七丁二十三間三分
 なお、ここは「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」の脱線部分で記した目増公民館のすぐ脇だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/21884427/
 ◇      ◇       ◇       ◇      ◇
 「六角謙三」氏の検索キーワードで当ブログをお訪ねいただいたのに、そのページを開けなかった可能性があるので、ここにメモする。
 開きたかったのは「中田観音②」で野口英世氏が中田観音御礼詣をしたことにふれたページなのだと思う。帰省時の過密スケジュールぶりを紹介したのだが、その中に9月11日の闘病中の友人の父六角謙三氏見舞にふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16871211/
 ここで、友人としたのは六角譲氏のようだ。野口英世氏とは猪苗代高等小学校の同窓生で、1911年に猪苗代町で眼科医として開業していたらしい。整理では見舞いとしたが、実際には脳溢血で倒れた六角謙三氏の診察だったともいわれているようだ。
 ここでは簡単に友人の依頼としているが、六角氏への恩義もあったように思われる。というのは、野口英世氏が横浜丸を下船した時には、謙三氏の弟である謙吉氏が二頭だての馬車で迎えているという。
 ただ、謙三氏は、野口英世氏の診察のかいもなく11月2日には亡くなっているようだ。
by shingen1948 | 2015-12-09 08:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)