土湯会津道を歩いてみる⑩~梅後
2015年 11月 30日

先の「如意輪観音堂」の解説に、「昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ」とあったこととかかわる風景でもあるようだ。

半沢氏の「歴史地図」には、「梅子館 梅子の清水 うめご保育園」がプロットされるが、その事ともとかかわるのだろうと思われる。
このうめご保育園の北側を流れる川石川(荒川用水)に濠のイメージを重ねてしまうのだが、「信達二郡村誌」では「濠は埋りたれも水少しく滞溜す」とするので、明らかに違う。

それで、散歩中は、この橋辺りがその館の北西隅のイメージで眺めているが、定かではない。
その「梅子館」は、「信達二郡村誌」に「古内舘」とある古跡とも重なるのだと思う。この館は「荒井村古跡」では、次のように紹介される。
「古内舘」
西部梅後に在り 古内主膳正居る所なり 西北に門の故跡有り 東西に壊塁少しく存す 濠は埋りたれも水少しく滞溜す 此の近傍牛沢と称する地も又古館址有り 何人の居しや考ふ可からす
主膳正は 伊達輝宗親子に降参し 伊達郡藤田駅の傍なる山崎の館に移り 後岩沼 今の陸前国名取郡の館に移住す 伝言ふ 主膳正一女有り 梅子といふ 此の館を去る時梅子を留め 近傍に農民7戸有りたるに託して山崎に移る 後梅子夭死す 葬りて石の祠を建て之を12御前と称す 7戸の者の子孫皆転居して今は1戸も本村に居る者無し 姫の名を以て土地の字とし 文字を易へて梅後とす 今存する石祠の地主は7戸の者の子孫に非すと村人いふ