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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土湯会津道を歩いてみる⑧~原宿

土湯会津道を歩いてみる⑧~原宿_a0087378_10425730.jpg 「東北農業研究センター」の次の大きな施設は陸上自衛隊で、ここがその施設の正面。大きな施設であるとともに、後でふれるように、この自衛隊敷地内が「愛宕原」であることも気になるところだ。そのことについてふれるのは、この施設の手前に建つ「如意輪観音堂」を整理してからにしたいと思う。

 ここが、その「如意輪観音堂」。「信達二郡村誌」では、次のように紹介される。
土湯会津道を歩いてみる⑧~原宿_a0087378_10442042.jpg
 如意輪観音堂
 中部原宿に在り 境内東41間5分 南北27間9分 段別28歩 外に属地石塚9歩 共に民有地 本尊木像は行基菩薩の刻む所と云伝ふ 昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ 宝暦五乙亥年三月七日火災に罹り古文書を亡ふ
 「昔者古内主膳正なる者 本村古内の城 西部梅後 に居る時 子無くして此仏に祈り1女子を生む 故に堂を造り仏徳を賽すと云ふ」の部分は、後で「西部梅後の本村古内の城」散策とのかかわりで整理したい。 
 今回は、ここを半沢氏の「歴史地図」には「原宿観音」と紹介されるのだが、その「原宿」にこだわっての整理だ。
 昨日もふれたように、「歴史地図」には以下のメモが記される。 
江戸時代、ここが土湯街道のとき、このあたりは馬のつなぎ場の宿として使われた(原宿)
 この「原宿」地区の別の側面を知ることになったのは、「信達二郡村誌」で「地蔵原」を確認した時なのだが、それも整理しておく。
 「信達二郡村誌」の「荒井村」の「原野」の項に、「地蔵原」と「愛宕原」が紹介されるのだが、その「地蔵原」の紹介後半に、この「原宿」地区が次のように紹介されているのだ。
 古人題詠する所の信夫の原は原宿なりといふ 高敞にして最眺望に宜し 新古今ニ条院讃岐の歌にうちはへて苦しきものは人目のみ信夫の浦の海士のたくなは 新勅撰家隆の歌に人しれす信夫の浦にやくしほの我名はまたきたつ煙かな 新古今入道前関白の歌に日を経つつ都しのふの浦さひて浪よりほかのおとつれもなし
 都人の言葉遊びの世界の話で、どうでもいいことではある。ただ、福島の散歩資料では、信夫山についてはこの都人の言葉遊びの世界の話まで紹介されるのに、こちらが紹介されるものをみない。その不均衡への抵抗として記しておきたいのだ。
 言葉遊びでの「信夫の山」は信夫山だが、「信夫の浦」はこの原宿辺りとのことなのだとか。ついでに、「愛宕原」の項からは、「信夫か原」の言葉遊びの地は、自衛隊敷地内「愛宕原」だとの紹介部分も記しておく。
 山上に愛宕神社鎮座す 故に原の名とす 新古今家隆の歌 一目のみしのぶか原にゆふしめの心のうちに朽やはてなし 新拾遺後一条入道関白の歌 あらはれて露やこほるるみちのくの信夫か原に秋風そ吹

by shingen1948 | 2015-11-28 08:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)