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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土湯会津道を歩いてみる⑦~原宿

a0087378_6245511.jpg 山神社を過ぎて次に気になるのが、街道筋の左手に見える大きな施設。ここから大きな施設が立ち並ぶのだが、その最初の建物は「東北農業研究センター」の看板を掲げる。
a0087378_6261480.jpg 目印のバス停は、「目増」だ。
 確認する中で分かってくるのは、目増地区を通り抜けてこの土湯会津道に交わる道筋が、明治以降の土湯会津道とかかわるらしいこと。明治39年に、現荒井横断道路ができて、自分のイメージでは旧土湯街道にあたる道筋が明治44年にできて、この明治39年にできた現荒井横断道路と交わり街道自体はそこから西進する。
 それをそのまま土湯会津道まで延ばし赤仁伊田―日増線とされるのが、ここで交わる道筋のようなのだ。「歴史地図」のメモによれば、これも明治44年の時点でできた道筋のようだ。

 「東北農業研究センター」の次の大きな施設は陸上自衛隊で、勿論こちらの風景も散歩中に気になったが、もう一つ気になったのは、その施設の手前に建つ「如意輪観音堂」だ。たくさんの墓や供養塔群がある。
 この確認とかかわるのが、街道筋で人家のある辺りにとびとびにある小字名「原宿」。この辺りの反対運動の看板にも「原宿」という地区名が使われている。この「原宿」についても、確認する中で分かってきたことの一つだ。
 半沢氏の「歴史地図」には、江戸時代、ここが土湯街道のとき、このあたりは馬のつなぎ場の宿として使われた(原宿)と解説される。
 散歩をしている時には、昔はこの辺りが栄えていたということの痕跡だとの認識だけだったが、「信達二郡村誌」での確認を通して、別の見え方もあるらしいことを知った。
by shingen1948 | 2015-11-27 08:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)