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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土湯会津道を歩いてみる④~元荒井村の道路元標

 昨日整理の愛宕山と西の山々との間の窪地からつながる道筋は、土湯会津道を横切り北に延びる。
a0087378_5273139.jpg この道筋が、新しく東西に走るようになった道筋と交わって、その後の道筋が消滅しかかっていることについては昨日ふれた。
 この写真は、その分断されたあたりからその道筋を眺めている。この道筋が横切っているのは、土湯会津道を想定している現県道南福島―地蔵原線の道筋だ。


 今回は、半沢氏の「歴史地図」にプロットされる元荒井村の道路元標の位置が確認できたことを整理する。
a0087378_5313070.jpg 目安になるのが、この石塔群だ。
「歴史地図」では、弘化4年(1847)死霊大権現・庚申供養塔・馬頭観音がプロットされ、「このあたりに明治初年荒井村道路元標が建てられた」とメモされる。
 元荒井村の道路元標が建っていたのは、この辺りということだ。
 本当は、この元荒井村の路元標がプロットされる位置が推定することができるようになったのは、何度かこの辺りを散策した後の話だったが、先に整理しておく。
a0087378_5323722.png 元荒井村の道路元標が建っていた位置が確かめられると、逆に消滅しかかったもともとの道筋が推定できるということでもある。こんな感じかなと思う。
 この道筋を分断消滅させているのが、区画整理計画による道路だ。散歩中は、そういう見え方だったのだが、よく見るとこの辺りでは〇〇内と〇〇原との境界線にもなっていることに気が付いた。
 「歴史地図」では、この内と原について次のような解説メモがある。
 地名に〇〇内とつくのは、中世以降に開拓集落が形成されてきたところかと思われる (在家)。川石田堰灌漑地域にあり、開田が可能なところである。
 その反対に用水路が引けない山麓には〇〇原という地名が多い。
 本当は、原と内を意識することが荒井村の散歩には大切だと分かったのは、もう少し後になってからだったが、こちらも先に整理しておく。
by shingen1948 | 2015-11-24 08:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)