鳥川の散歩を終えるその前に②
2015年 11月 20日
それは、頼朝の東北侵略頃の東北の勢力関係だ。
信夫の里の佐藤氏が藤原氏と密接な結びつきであったということでの整理では、この地域では一枚岩だったというイメージが形成される。しかし、あれほどの活躍した佐藤氏も、合戦後は鎌倉側についたというのであれば、藤原氏とのかかわりをもうちょっと緩いイメージにした方がよさそうだと思うのだ。
少なくとも、佐藤氏も含め「阿津賀志山」の南の現福島地域有力者は、確実に藤原氏側につくという姿勢ではなく、どちらにつくかという迷いがあったのではないかとの想像になっていきそうだ。
そういえば、この地域は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠していたということがあった。奥州藤原氏は信夫佐藤氏との関係を深めるのに、乳母関係や婚姻関係を通じて関係を深めたということだった。これは、見方を少しずらせば、佐藤氏でさえ、その在地の有力者を臣下に治めるためには、そういった工夫が必要だったということでもある。
勢力を維持するのにそうしなければならなかったという側面があったというふうにイメージし直したほうがいいと思えるのだ。
「阿津賀志山」の南の現福島地域の武士団は、鎌倉側と対峙することになった時点で、これまで通り奥州藤原氏との関係を続けるか、鎌倉側につこうか迷ったのではないかという想像につながる。佐藤氏の例は、その奥州藤原氏との関係を続けようとした武士団も、文治5年奥州合戦後は、鎌倉側についたということなのだろうと思う。
そんな状況の中に、新たに鎌倉側の二階堂氏が「名倉」に、伊達氏が伊達の地域に送り込まれてきたということではないかなと思うのだが、どうだろうか。
阿津賀志山に防塁が必要だったのは、ここが地形的に防御に適した要の地だったことが最大の要因ではあろうと思う。しかし、それだけではなく、阿津賀志山の北側の家臣団に比べ、信夫の里の家臣団との絆が緩いことも、もう一つの要因としてかかわっているのではないかなとも思えてくるのだが、……。(2015/11/21付け加え)