地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鳥川の散歩を終えるその前に

 「鳥渡山王社付近散歩の振り返り」で、次のような信夫の里の勢力関係の時代があったことを意識したのは、二階堂氏を意識したからだ。

 頼朝の東北侵略が、この時代のこの地域の大きな転換点の一つだったろう。
 それ以前の支配勢力は信夫佐藤氏だが、信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたとのことだ。 頼朝の東北侵略後は、信夫庄の北部「北郷」に佐藤氏の影響を残しながら、信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣され、この二階堂氏が、南西隅の地域を治めるようになっていたらしいということだった。
 この時点の伊達氏の勢力の中心は、伊達の里だったということのようだった。その後、伊達氏が信夫の里まで侵略してきて、勢力のバランスが崩れるというイメージで整理してきた。

 【歴史と出会う(網野善彦著)洋泉社】の「『もののけ姫』と中世の魅力」という宮崎駿氏vs網野善彦氏の対談の項で、中世の時代区分について、次のように発言しているのを見つけた。
 「常識的な時代区分では、鎌倉幕府から中世が始まり、江戸幕府からが近世となっております。しかし、京都の歴史家たちは、早くから南北朝期を時代区分上の画期だといっています。」とある。しかも、こちらは「日本の社会構造、「民族的体質」にかかわる大きな転換期だった」とのことだ。
 巨視的見方では質の違う転換期のようだが、信夫の里は、鎌倉幕府とかかわる「頼朝の東北侵略」から「南北朝期」にかけての混乱と大きくかかわっているわけで、その間に挟まれた時代の勢力分布イメージの話だ。
 先の整理では、その後の伊達氏の勢力拡大に伴う時代が展開されることと市史等で紹介される散歩資料につなげた。
 この整理はその続きで、鳥川散歩で気になった事で整理し残したことを確認しておきたいのだ。
 それは、頼朝の東北侵略後も、信夫佐藤氏が信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたことについてのイメージの確認だ。
 ズバリ言えば、佐藤氏は文治5年奥州合戦後、信夫庄の北部「北郷」に旧来の領土が安堵されているということだが、これって、紛れもなく鎌倉側についたことを表しているということだ。それは、佐藤氏だけではなかったはずだと思うのだ。
 近くの郷野目周辺の地域史を概観した半沢氏の資料の中世部分の解説に、「石那坂合戦」の項で次のように焦点化しているのだが、この方々はどうしたのかなと思いを馳せる。
 
 鎌倉時代の初頭にはこの地では歴史上名高い佐藤庄司らの石那坂合戦(吾妻鏡)があるが、奥州藤原氏の武士団の一員として河辺の太郎(高経)がおったがこれは郷野目太郎だという説もある。このころ信夫の庄の地名には保木田(ほうきだ=方木田)というのも見えている。
by shingen1948 | 2015-11-19 09:14 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)