地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鳥渡山王社付近の風景~権兵衛屋敷周辺② 「信夫塚」

 半沢氏の「歴史地図」の二階堂屋敷の旧会津街道を挟んだ南側に、「信夫塚」がプロットされ、「正応2年(1289)の板碑」とのメモがある。
 福島市史資料叢書「信達二郡村誌」の上鳥渡村の古跡の注⑤で、この板碑については以下のように解説されている。
 正応二年の板碑は、「信夫塚」の碑とよばれてきたが、明治40年代に字藤南の二階堂墓地に移された。
                    右志者過去先考幽
                           敬
阿弥陀三尊種子     正応二年大才巳丑二月十八日孝子等
                           白
                   儀士離生往生極楽也

a0087378_511291.jpg 散歩中は、確認ができてはいなかったが、撮った写真を詳細に眺めれば、左下に「右  者」が読め、中央付近に「二月十八」が読めて、左端下に「儀士離生」が読めている。この石塔が「信夫塚」の碑であることに間違いはなさそうだ。

 この「信夫塚」の碑については、「信達二郡村誌」の本文で、以下のように詳しく紹介されている。
城之内中部古碑は 天保三年畠の中より掘出せりと云ふ 少しく高き桑田中に有り  仰仆す 縦五尺三寸余 横三尺一寸 上に梵字三有り 其の下に巳釼正応ニ大歳巳丑二月十八日 孝子敬白 右志者過去の字見ゆ 出離生死往生の字見ゆ 其の他漫漶読む可からす 伝え云ふ 朝日舘陥る時 家臣樋口某君父の戦死を嘆き自殺す 後に至り一族郎従等此碑を建つと
 気になるのは「朝日舘陥る時」が、「天文中伊達輝元宗屨之を攻む」時なのか、「信夫小太郎」の後「中村治郎持宗居る」時辺りなのかということ。
 「天文中伊達輝元宗屨之を攻む」時ならば、その敗者は二階堂氏かかわりということの想像になるだろうし、「信夫小太郎」の後「中村治郎持宗居る」時辺りならば、その敗者は佐藤氏かかわりの想像ということになるのだろうと思うからだ。

 二階堂墓地への移動からは、地元の方々にとっての意識が前者と想像しているのではないのかなという風に思えてくるのだが、実際はどうなのだろうか。
by shingen1948 | 2015-09-06 09:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)