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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鳥渡山王社付近の風景~二階堂氏と朝日舘③

 文治5年(1189)の石那坂の戦後も大鳥城の佐藤一族は信夫・伊達の各地に残されていたようだが、「陸奥国信夫庄」の視点でみれば、伊達氏の影響も大きい。
 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「信夫荘(古代~中世)」で、伊達氏、佐藤氏の勢力とのかかわりを抜粋すれば以下のようだ。
 〇 文安2年10月17日、勲功賞により「陸奥国信夫庄保木田郷内一宇須河波田」が国分筑後守に宛行われる【伊達持宗施行状】
 〇 戦国期の大永年間、伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられる。(当荘はその支配下)
 〇 永正13年4月23日、「信夫之庄北郷谷目之内」などが佐藤孫右衛門に、同16年3月24日「信夫庄名倉さか内在家」などが萱場鶴増に安堵される【伊達稙宗安堵状案】
 〇 当荘は「大仏かた・御はんの所・北郷・なくらかた」に四分され,北郷は北部地区,名倉方は西部地区に当たるが,大仏方は中央部から東部にかけての地区であるが,鳥渡・大森など名倉方の中に存在する村もあり,御判の所は南の八丁目・天明根から北の石森・丸子に至る交通の要路に沿って分布しているの【天文段銭古帳】
 〇 天文22年正月17日「信夫庄いからへの内」と見える【伊達晴宗安堵状】
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 上記のように伊達氏と佐藤氏の影響もあって、「陸奥国信夫庄」の中では二階堂氏の影は薄くなるようだが、この地区内ではその影響力は保持していたようにみえる。

 これは、震災前2009年4月に撮った朝日舘の高まりの部分だが、この右手に写る「朝日舘の記」に記される中から朝日舘と二階堂氏のかかわりがイメージできる部分をくくってみる。

 朝日舘の記
 朝日舘は鳥渡山王といわれた鎮守日吉神社の南野山上にある中世の舘跡である南側は山地に連なるが北側と東西の山腹は急崚で山上からの眺めもよく福島の市街地や西部の荒川と松川流域一帯を望む事ができる平安時代の末ごろ信夫庄佐藤基治の一族信夫小太郎が居城したと伝え信夫小太郎は文治5年8月佐藤基治らとともに鎌倉の源頼朝軍勢と信夫郡石那坂に戦い討死したといわれている。
 下って仁治元年10月鎌倉幕府評定衆の二階堂基行の庶子の行氏に信夫庄鳥和田村を譲り渡した資料があり鎌倉時代中期の鳥渡の姿を知ることができる。
 <ここから下鳥渡供養塔が解説される以下の文章が挟まる>
 朝日舘の東麓には正嘉2年9月亡母のために造立された国史跡の下鳥渡供養塔があり当時の浄土信仰を物語る阿弥陀三尊仏の浮彫りも見事なもので地域に残る鎌倉文化を伝えるもの貴重である周辺にはこうした供養塔も多く朝日舘を中心とした宗教文化圏と推測される。
 南北両党が争ったころ鳥渡の地頭二階堂氏は北党に属して南党の霊山城等を攻め戦乱後の延文2年に舘の東南に臨済宗湖山寺を建てた湖山寺本尊釈迦像は後世に開かれた朝日山陽泉寺に安置され国の重要文化財となっている。
 応永20年二階堂信夫常陸介が伊達持宗と戦ったあと信夫郡は伊達氏の支配になり朝日舘の消息は歴史に埋もれてしまった。
 <ここから下鳥渡山王社である日吉神社が解説される以下の文章が挟まる>
 日吉神社は平安初期の創建と伝え幕末まで修験明光院が別当であり山王さまの名で目の神○益と農事の神として近隣に聞こえ民衆の信仰暑いものがあったと公園整備による段階でとのぼりさん滋養の松嶺をきくと○○歳月に土地を開き社寺の造立をすすめた領主と現在まで○い文化遺産を守り伝えてきた村民の堅実な力と祈りに深い感慨を覚えるものである。
 朝日舘自然公園建設期成同盟会

 ※ 朝日舘は、二階堂氏居城の舘候補地の一つだが、もう一つの候補地が名倉城だ。この事については、先に発掘調査資料の読み取りをもとに「名倉城②」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/8155926/
 「二階堂氏と朝日舘」の中でふれるべきだったなと思うので、2015/7/24に付け加えた。
 朝日舘の記に「応永20年二階堂信夫常陸介が伊達持宗と戦ったあと信夫郡は伊達氏の支配になり朝日舘の消息は歴史に埋もれてしまった」とある事との関連でもある。
by shingen1948 | 2015-07-23 07:25 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)