鳥渡山王社付近の風景~二階堂氏と朝日舘
2015年 07月 21日
湖山寺の開基者「二階堂民部大輔時世」氏は、二階堂基行公の弟の子孫にあたる方とのことだが、どの弟の系譜かは確認していない。
「図解福島市史」は、二階堂氏と佐藤氏の項の中で、「尊卑分脈」を根拠にして次のような紹介。
仁治元年(1240)鎌倉幕府の評定衆二階堂基行は、その子行氏に、本領の相模国懐島のほか参河国重原庄・尾張国西門真庄・伊勢国増田庄・肥前国鏡社とともに「陸奥国信夫郡鳥和田村」をゆずっている。ここでは、行氏が鳥和田村等の地頭職を譲られた仁治元年(1240)以降に「一族庶子が信夫の鳥和田に派遣され」たとする。しかし、素人考えでは、それ以前も二階堂氏の所領であり、その派遣もそれ以前に遡ってもよさそうにも思うが、どうだろう。
行氏自身は本領である相模国懐島に住したとみられるが、その一族庶子が信夫の鳥和田に派遣されここに住したことは、のちの二階堂信夫氏の存在によって明かである。
その信夫の鳥和田に派遣され二階堂氏の一族庶子の居城した候補地の一つに、現在水道施設になっている朝日舘が挙げられているようだ。
この写真は、震災の年の11月末のものだ。放射線量の低いと思われる付近を恐る恐る散歩していた時のものだ。
ここに建つライオンズクラブの案内板は、文治5年(1189)の石那坂の戦いで、源頼朝に滅ぼされた佐藤一族の信夫小太郎の舘として案内される。二階堂氏とのかかわりについてもふれるのは、その後ろに建つ朝日舘自然公園建設期成同盟会の「朝日舘の記」の石碑だ。
その後の鎌倉時代中期の二階堂氏時代にふれているのは以下の部分。
〇 南北両党が争ったころ、鳥渡の地頭二階堂氏は北党に属して南党の霊山城等を攻め、戦乱後の延文2年に舘の東南に臨済宗湖山寺を建てた。(その湖山寺本尊釈迦像は後世に開かれた朝日山陽泉寺に安置され国の重要文化財となっている事については、先にふれた)文治5(1189)に源頼朝の奥州遠征で、信夫郡付近が激戦地となり、その奥州合戦後に、先に何度か整理した常陸入道念西が伊達郡を賜わっているのだが、二階堂氏も信夫の庄の地頭となっているとのことだ。「尊卑分脈」に、仁治元年(1240)にその二階堂基行が行氏に鳥和田村等の地頭職を譲る事が記されているというのが、確からしさの根拠になっているということのようだ。
〇 応永20年二階堂信夫常陸介が伊達持宗と戦ったあと信夫郡は伊達氏の支配になり朝日舘の消息は歴史に埋もれてしまった。
信達一統志 福島市史資料叢書 第30輯 5p
信達歌に源義経居ルココト二東奥藤戸館一凡九年。至テ二治承四年冬十月二一聞三兄頼朝
起スト二兵於関東二一也。辞シテ二秀衡二一而西ス。乃過リ二信夫杉妻太郎行信佐藤荘司基治二一
而告別焉
二階堂屋敷近辺に今でも藤南と言う地名があり、その近辺に「フジコブ」と呼ばれる地名がある。
平安時代末期に陸奥国は後白河院の院分国となっていた。
頼朝奏上に「謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。」
とあり二階堂屋敷は藤原秀衡所帯跡と考えられる。
平泉の初出は吾妻鑑でありその他の史料に平泉はみられない。吾妻鑑は後代に編纂され曲筆や誤りが多く含まれている。
観応の擾乱期の史料から大仏城は古代・中世の陸奥国府であったと考えられる。
大同五年の太政官符に信夫郡以南遠郡と国府の行程は二三百里とありこの里程をあてはめると古代陸奥国府は信夫郡界隈に存在したことになる。
多賀国府の初出も吾妻鑑であり曲筆の疑いが濃厚である。
情報ありがとうございます。二階堂屋敷=藤原秀衡所帯跡とのことですが、これが「鳥渡の地頭二階堂氏」「信夫の鳥和田に派遣された二階堂氏の一族庶子」ともかかわるとみてよいのでしょうかね。
多賀城を陸奥国府とし平泉を藤原三代の屋敷跡とする説は江戸時代の伊達藩学者が唱えた説で根拠はありません。
賀美郡の多賀柵が改修され多賀城になりました。多賀城が賀美郡にあったからこそ栗原郡の伊治城の反乱時に国司らが隣の多賀城へ逃げ込んだのです。賀美郡から遠く離れた所から多賀城碑が出土しそれを根拠に多賀城跡と伊達藩学者は強弁したのです。出土場所、碑文の内容が続日本紀と全く合致しません。発見当時から贋物と疑われていました。最近、埋まっていた穴が発見され本物の証拠などと寝言を言う人がいますが埋まって居た場所が贋物の証拠です。同遺跡は大規模な発掘調査が行われましたが平安時代末期以前の遺構であると結論されています。多賀国府と吾妻鑑にきされていますがその様なものは存在しません。
吾妻鑑は平泉三代の屋敷は焼かれ土ばかり残っていた。と記していますが掘っ立て柱なら地中部は焼けず、境界部は炭化し腐らず残るはずです。それらの柱跡群は発掘調査で検出されず折敷と呼ばれる木工製品の欠片が焼けず腐らず出土しています。科学的にあり得ない事です。伊達藩学者が記した平泉実記に基ずく虚構です。
藤原基衡は陸奥国衙の在国国司目でした。藤原秀衡は鎮守将軍、陸奥守等の陸奥国府の官職に補任されていました。
平安時代末期にも陸奥国府は存在していた証拠です。
陸奥守の歴代記録を見ると鎌倉時代末期、北畠顕家まで累々と補任されています。大同五年の太政官符に記された陸奥国府の位置情報によれば陸奥国府は信夫郡に存在したのです。