地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鳥渡山王社のマカテヤ記念碑④~山田村の散策振り返り23

 目にする資料では、マカテア島がかつて太平洋におけるリン鉱石四大産地のひとつといわれていた事は既知であるという前提で解説される。しかし、当方にはその知識がなかったので、その概要を確認しておく。

 マカテア島は、仏領ポリネシアのツアモツ諸島の一島で、タヒチ島の北東約200キロに位置する隆起珊瑚礁の島。
 そのマカテア島では、ナウル島やバナバ島でリン鉱石の採掘が開始された直後にリン鉱石が発見される。 
 それで、明治37年(1904)には、太平洋燐鉱会社の助言と援助で仏の太平洋諸島会社が設立されて、明治43年(1910)に採掘事業が始まる。
 その後、採掘は仏オセアニア燐鉱会社に受け継がれて、周辺のポリネシア人やベトナム人、日本人を労働者として導入する。
 しかし、昭和41年(1966)には、資源枯渇で50年に及ぶ採掘の歴史を閉じる。
 廃虚となったマカテア島では、採掘終了の翌年の昭和42年(1967)には、住民数がわずか55名に激減する。

 明治43年(1910)に採掘事業が始まって、日本人を労働者として導入ことになるというその移民の話の発端は、大洋燐硫会社の副社長アランデルが来朝し、その取引先である三井物産大阪支店に対して、邦人雇用の話を持ち込んだ事なのだとか。
 ここから昨日整理の東洋移民会社の「太洋島土地の状況書」を元に紹介されたマカテア島への移民の概要の話につながる。マカテヤ記念碑建立が、大正元年(1912)なので、時の流れとして、このつながりに矛盾はない。
 その概要の話からは、渡航邦人は直接燐硫の採掘に従事したのではなく、各々その熟練するところを以て採掘以外の部署についたのであろうことが読み取れるとのことだ。
 この移民渡航後の実際が良かったので、外務省はマカテア島に移民を送り出すのに乗り気だったとのことだった。
 ということで、次いで日本植民合資会社が昭和15年(1940)1月から昭和17年(1942)5月まで、8回にわたり合計348名を送るようになるようだ。

 この整理で、マカテア島移民で「案外よかった」のは、渡航後の賃金は勿論だが、他に、郷里より乗船までは自己負担だが、船賃・食料・医療費などは雇い主の負担であるという好条件でもあったようだとした。
 今回、燐硫事情:東洋及南洋方面【阿曽八和太】を確認していたら、その「マカテア島」の項に、食料が無償であったという条件もあったので、これも加えておきたい。

 「植民地大鑑【東洋タイムス】(大正5年)」に、具体的に移民者が「マカテア島」へ上陸するまでのコースも紹介されるのを見つけた。
by shingen1948 | 2015-07-06 08:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)