鳥渡山王社のマカテヤ記念碑③~山田村の散策振り返り22
2015年 07月 05日

鳥渡山王社の「マカテヤ記念碑」は、ここに写る鳥居の左手手前に2つの水神の石碑と共に建っている。
この碑を読めば、マカテヤ(ア)移民者が、その記念に鳥渡山王社の「石旗杙」代を中心に寄付を行ったことを示すいわば副碑のようなもののような気がする。その本碑的な「石旗杙」を探すが、今のところそれはみつけられないでいる。
この碑は、仏領マカテヤ(ア)島移民に特化しているということもあって、その情報を探すと、「植民地大鑑【東洋タイムス】(大正5年)」と「明治南進史稿【入江寅次】(1943)」に同じ紹介文を見る。
その「明治南進史稿」を中心に確認すると、「太洋島及びマカテア等移民」の項で太洋島への移民が紹介され、マカテア島の移民が同じような状況であったとの文脈の中で紹介される。
そのマカテア島の地理的位置とその移民の概要について次のように紹介されている。
仏領ソサイテー群島中に、マカテア島というのがある。仏領太洋洲植民地総督府所在地タヒチ島から舟行一晩である。東洋移民会社は、明治13年3月から同年8月にかけて350名を同島に送った。大洋島の場合と同じく、大工、船大工。火夫、料理人、鍛冶工等であった。雇い主は巴里に本店を有する大洋洲仏国燐硫会社(コンパニー・フランセス・デ・フオスフェート・ド・ロセアニー)である。「マカテヤ記念碑」が、仏領マカテヤ島移民者に特化していることとかかわるのが、その移民についての評価だと思うが、それが次のように紹介される。
太洋島の場合も、またこのマカテア島の場合も、別に最初現地の状況を審査したりした訳ではなかったが、移民渡航後の実際は、案外よかった。それで外務省は、大洋島の方はともかくとしてマカテア島の方に、もう少し移民を出したいと思った。当の移民会社もまた乗気であった。「案外よかった」のは、渡航後の賃金は勿論だが、他に、郷里より乗船までは自己負担だが、船賃・食料・医療費などは雇い主の負担であるという好条件でもあったようだ。
ただ、200円以上の資産を有する者2名の保証人が必要であったとのことだ。
仏領マカテヤ島移民者は、この厳しい保証人の条件がクリア―でき、他よりも未来展望が明るい希望に満ちた移民との感覚であったろうことが想像される。それが、仏領マカテヤ(ア)島移民に特化していることとかかわるのだろうと想像する。