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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山田村の散策振り返り⑮~好国寺③

 よそ見を大切にしたいと言ってはいるが、散歩中になんだろと思ったもので、確認ができなかった情報は切り捨てていた。しかし、その確認に費やした時間も多く、結構心の中には思い出として残っている事が多い。
 曖昧さが残ったままでも、そのまま整理しておきたいと思うようになったのは最近の事だ。
a0087378_17122522.jpg 御夫婦の石碑の右側に建つ12世・13世が読める石碑は、その時代のお寺の方かなと想像はできるのだが、この長尾氏御夫婦の石碑の右脇手前のこの石碑はよく分からない。高橋仲右衛門墓が読めるような気がする。散歩中は、長尾久右衛門大学氏とともに開拓に関わった方かなとも思ったが、そうでもないらしい。

 半沢氏の「長尾久右衛門大学の開拓」のメモに、「寛永7年(1630)ごろ上杉氏の新田開発奨励政策に寄り帰農したという」とあるのは、長尾久右衛門氏に「山田村開発免許状」が発給されたという情報と重なるようだが、この受給者が、鈴木源左衛門氏と長尾久右衛門氏とのことだ。
 その鈴木源左衛門氏は、今は信夫郡、福島の大肝煎だろうと推測がついている。

 慶長6年(1601)、徳川家康によって、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封されるが、この時点で伊達信夫両郡はその米沢藩領だ。この体制は、寛文4年(1664)に、更に15万石に半減されて伊達信夫両郡から撤退するまで続く。
 初期の米沢藩では、この減封対策として家臣団のリストラを極力避けて、新田開発を進めている。「新田開発奨励政策」というのは、その事を指しているのだろう。その結果、2代藩主上杉定勝公の時代には、表高30万石に対して内高は51万石あったといわるようになっているようだ。

 その信達両郡の統治だが、米沢藩では村々を束ねる大肝煎(信達4郡役)に依拠しての統治だったようだ。
 その大肝煎の信夫郡(福島)は鈴木源左衛門氏、伊達郡西根郷(桑折)は佐藤新右衛門氏、同郡東根上郷(下保原)が渡部新左衛門氏、同郡東根下郷(梁川)が堀江与五右衛門氏、同郡小手郷(秋山)が高橋清左衛門氏という5人体制だったらしい。
  「山田村開発免許状」受給者の鈴木源左衛門氏は、この信夫郡、福島の大肝煎だろうと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2015-06-27 17:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)