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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山田村の散策振り返り⑩~山王道筋沿いの鹿島神社⑥

 前回は、小倉舘の鹿島神社で気になった伊達氏と鹿島神社とのかかわりにかかわって、伊達氏の祖伊佐氏が常陸とかかわる事からの勝手な妄想に浸った。その妄想を広げれば、その家臣にも鹿島にかかわり深い方がいらっしゃってもおかしくはないということだ。  
 家臣の中には、剣法として鹿島流として願流を起こされた方がいらっしゃるという情報も見るが、深追いしない。

 次に気になるのが、小倉舘主牧野 紀伊守とおっしゃる方だ。
 同一人物なのかどうかは知らないが、「牧野紀伊守」という御名前に接した事がある。梁川の散歩で、「興国寺」の「上杉景勝家臣梁川城主須田長義公の墓」に立ち寄ったことがある。この時に、その興国寺の旧地が常栄寺跡とのことだが、その常栄寺が、この方の菩提寺だったということだった。

 先に整理した「興国寺②」で、その「常栄寺は、伊達家の宿老牧野紀伊守の菩提寺であったが、伊達氏が梁川を去った後に空き寺になったということのようだ」と整理した方だ。ここでは、この牧野氏は元亀の変で失脚し、相馬へ逃れたと伝えられるらしいとしてそのままにしていた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9284941/
 この「元亀の変」は、元亀1年(1570)の伊達輝宗公と父晴宗公との対立。
 永禄7~8年(1564~65)頃には、晴宗公は引退して、伊達輝宗公は、家督を継いでいたのだが、晴宗公の宰臣である中野宗時氏と牧野宗仲氏父子の執政体制が続いていたとのことだ。
 それが、この変で輝宗公側が鎮圧して、遠藤基信氏を宰臣として家中を統治する新体制になったということのようだ。
 この時以降、伊達氏権力の中枢は、伊達、信夫に代わり置賜出身者がすわるようになるようだ。ただ、この遠藤基信氏の元の主人は中野宗時氏という関係性でもあったようだ。

 よく分からないところはあるのだが、伊達家の宿老牧野紀伊守が、中野宗時と牧野宗仲氏父子との「牧野宗仲氏」ということかな。
 とりあえず、この「牧野宗仲」氏のその後を追っておく。
 中野宗時氏とその子の牧野久仲氏は、共に追討を受けて相馬盛胤氏を頼って落ち延びるようだ。この時に、中野勢の方は亘理氏の攻撃で潰滅してしまうのだが、宗仲氏等は、身一つでなんとか相馬領へ逃れたということだ。
 その後、大森城主の伊達実元公と晴宗公を通じて、輝宗公に赦免を乞うてもらうのだが、許されずに流浪のうちに死去したということだった。

 天文22年(1553)晴宗が奥州探題に任命されると、桑折宗貞、牧野宗仲の二人が守護代となったとのことだが、牧野氏を意識しながら、その時の重臣とされる方を列記しておく。
 <牧野宗興・桑折宗貞・桑折景長・牧野宗仲・白石実綱・中野宗時・牧野久仲>
by shingen1948 | 2015-06-22 11:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)