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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山田村の散策振り返り⑦~山王道筋沿いの鹿島神社③

a0087378_1729852.jpg 「山中太郎右衛門頌徳生祠」の右脇の刻字部分だが、「供養・天明○年・月余・ 代官」が読めているような気もするがどうだろうか。
 一般的に、地域の情報では神格化された方と地域のかかわりが、より深いかかわりとしてデフォルメされるのが常だ。
 それで、他の地域とこの方とのかかわり情報を確認することで、そのデフォルメされた部分の平準化を試みる。

 小名浜地域の情報では、この方の小名浜陣屋就任が、天明 6年(1786)から天明 8年(1788)までとある。こちらの情報によれば、小田鹿島神社に祠が建立された天明7年(1789年)には、この方は小名浜陣屋に第7代代官様として在任していたということになる。
 「天明の大飢饉領民救済」の天明3年(1783)の大凶作の時点では、第5代代官蔭山外記氏とのことだ。

 天明3年(1783)の大凶作の時点で、山中太郎右衛門氏がおらが村のお代官様だとする情報は、山形県東置賜郡高畠町安久津にあるようだ。
 こちらの安久津八幡神社にも、氏の同様な報恩碑が建つのだという。
 どちらにしても、搾取される側からその搾取に大凶作のご配慮を頂いたという情報で、その至誠が、地域の恩義の美談として東北地方の広い範囲で語られていたように思うのだ。

 江戸期の三大凶作とされるのは、享保17年(1732)と天明2年(1782)~7年(1787)、それに、天保4年(1733)~10年(1739)の凶作とのことだ。この時期の飢饉が、餓死者多数を出した飢饉だといわれている。
 このうち、享保の凶作は西国地方中心で、奥羽地方の被害は少なかったが、天明と天保の凶作は奥羽地方全域で被害が出たという。
 山中太郎右衛門氏の美談がかかわる天明3年(1783)の状況は、2月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、6月から10月まで霖雨が止まず、冷涼で袷を着て焚き火を囲んでいたという状況だったのだとか。
 その冷夏と6月の大洪水、7月の浅間山爆発、8月の北風と大霜と災害が続いて、稲は勿論、畑作物も皆無となったという。
 三春地域の資料によると、三春領内では、秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽いたという。三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に避難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から5月まで施粥が実施されたようだ。
 三春北部の成田村でも1ヶ月間施粥が実施された記録が残っているという。それでも、領内の各村で餓死者を多く出たのだとか。

 この三春の資料で、奥羽地方では被害が少なかったとされる享保の凶作で、信達地域では有名な農民一揆が起きている。
 その一揆については、先に、その首謀者とされる佐原太郎右衛門氏を中心に整理している。
 その農民一揆が、享保14年に起きる。信夫・伊達郡の農民が、この年の年貢減免を強訴するのだが、その強訴先の一つが大森代官所だ。
 佐原太郎右衛門氏は、更に江戸に潜伏して目安箱に訴状を投入するが、捕らえられて、享保15年1月21日に49歳で処刑される。今回の整理と野かかわりで注目するのは、氏の生地である佐原に太郎右衛門一族の供養碑が建立されるのが、山中太郎右衛門氏の美談から2年後の天明5年(1785)だ。
 その2年後の天明7年(1787)には、山中太郎右衛門氏は神様になる。その関係性が気になるところだ。
 純粋に美談として見るのがいいのかもしれないが、出来事を羅列すると、顕彰することで不穏な空気を抑えたかった権力側の都合というひねくれた見え方もあり得るような気もしてくるが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2015-06-16 17:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)