地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山田村の散策振り返り⑥~山王道筋沿いの鹿島神社②

 神社の境内案内の項では、「要石」と「小倉橋の碑」が紹介される。「要石」については案内標も建つが、「小倉橋の碑」には案内標はない。それで「小倉橋の碑」を少しは探したが、それでも直ぐにみつけることができた。

 境内案内では、その他に欅(けやき)榧(かや)の古大樹や小社たまる福稲荷と共に、鎌倉初期の「石造宝塔」と「山中太郎右衛門頌徳生祠」も紹介される。こちらを見つけるのは、ちょっと苦労した。
 地域の方には直ぐに分かる事なのだろうが、他所者の散歩人にはなかなか見つけることができなかったが、何度か訪ねてようやくそれらしきものを見つけた。
 まずは、「山中太郎右衛門頌徳生祠」。
a0087378_1812743.jpg 多分、これがその「山中太郎右衛門頌徳生祠」なのだろうと思う。祠に葵の紋が彫られているらしいという情報がある。
 確かに、屋根にそれらしきものが見える。それに、この祠は他に比べてやや立派な感じもする。右袖の刻字が読み取れないのは残念だ。

 「生祠」の意味がよく分からなかったので確認する。
 「マイペディア」によれば、生存中の人間を神格化してまつることを生祀といい、その設けられた社祠を「生祠」というのだそうだ。
 その対象は、英雄だったり、聖者だったり、恩人だったりするのだが、神格化の要因としては、超人的資質を有するとか、常人にできない行為をするとか、恩恵を施す等が考えられるとのこと。

 山中太郎右衛門氏の場合だが、半沢氏の「歴史地図」のメモによれば、「天明の大飢饉に領民を救済した大森陣屋の代官」とのことだ。そして、この祠が建立されるのは、天明7年(1789年)とのメモ。

 この方の顕彰墓については、先に整理した「陽林寺②」でふれている。そちらの情報と照らし合わせる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7196521/ 
 こちらの情報では、この方は安永5年(1776)より十数年間大森陣屋にいた幕府代官と紹介している。また、顕彰される行為である下役人中沢道右エ門と共に農民救済に奔走する「天明の大飢饉領民救済」は、天明3年(1783)の大凶作の時とされている。大森陣屋着任7年後ということになる。

 こちらの「生祠」建立は、天明7年(1789年)との事なので、大森陣屋着任13年後ということになるようだ。この時は、大森陣屋代官在任中のように紹介される。
 陽林寺の碑建立は、寛政10年(1798)とのことだ。(先の整理では西暦に誤りがあったようなので、今回修正しておく)
 山中太郎右衛門氏は寛政10年(1798)2月6日に亡くなったとのことなので、これに合わせて陽林寺の碑は建立されたものなのだろうと思う。
 なお、中沢道右エ門氏は、その前年の寛政9年(1797)2月9日に亡くなったとの事だ。

 この地域の情報だけをみていると辻褄が合いそうなのだが、山中太郎右衛門氏の陣屋就任には、小名浜地域や山形県東置賜郡高畠町安久津地域の別情報も見る。
 ちょっと気になるので、こちらの情報にもふれてみる。
by shingen1948 | 2015-06-15 18:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)