地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

蓮光寺への立ち寄り~地域の人々が伝える祈る心にかかわて③

a0087378_10372853.jpg ここは、笹谷原町ではないが、その近くの観音堂だ。旧信夫三十三観音18番札所の原町観音堂なのかどうかは分からない。
 気になるのは、その前に並ぶ石塔群の左端と左から5番目に名号塔だ。本当の所は分からないのだが、左端の名号塔に刻まれる符号と、左から5番目の名号塔の字体が、勇猛和尚の影響力を感じるべきなのかもしれないなと思っているところだ。

 蓮光寺も、古くは「来迎山 称名庵」のような草庵だったようだ。
 その事について、案内板では次のように説明されている。
 当寺は昔は「摂受庵」と呼ばれ、古い草庵であったが、寛保元年(1741)3月15日創建、当村の佐藤良庵(俗名吉右衛門)の開山である。下大笹生村(現笹谷)の郷士佐藤吉右衛門英在、吉三郎英政父子は当寺の建立に尽くした。
 寺西の佐藤氏の墓所を確かめると、北西隅に側面に佐藤吉右衛門享年八拾有四英在が刻まれた墓石があり、その6番目の墓石から俗名吉三郎英政のかかわりが刻まれた墓石が並ぶ。元々、その方々がかかわる草庵であったところに、今回整理した「勇猛和尚」がかかわって、寺としての体裁が整ったということなのだろうか。

 蓮光寺について、「吾妻山地名伝承」と「地域の人々が伝える祈る心」の視点から「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」の案内板の説明と照らし合わせて整理してきた。
 その「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」の全文は以下の通り。
 「浄土宗 光明山 摂取院 蓮光寺の由来」
 当山は、浄土宗光明山と呼ばれ、総本山は知恩院(京都市東山区)大本山は増上寺(東京都港区)である。
当寺は昔は「摂取庵」と呼ばれ、古い草庵であったが、寛保元年(1741)3月15日創建、当村の佐藤良庵(俗名吉右衛門)の開山である。下大笹生村(現笹谷)の郷士佐藤吉右衛門英在、吉三郎 英政父子は当山の建立に尽くした。
 本堂中央正面に本尊阿弥陀如来座像、右に高祖光明善導太子立像、左に元祖大師法然上人立像を両脇侍とし、又、右に開基勇猛上人座像、左に延命地蔵座像が安置される。
 経蔵には一切経(2068冊)が残っており、板壁の仏画、聖人像(70体)がある。
 信達観音笹谷新町蓮光寺観世音御詠歌
 「あらたなるまちのおてらのかんぜおんだんのうてなにむらさきのくも」
 経蔵、観音堂の建立は明和3年(1766)でここの床下から一字一石の経石も発見されている。江戸時代信達ニ郡で一切経を所蔵している寺は当寺の外一寺にすぎなかった。太子堂は「15世報上良瑞天保7年霜月建立とあり、当地方には数少ない層塔で昭和57年修復完成した。
 勇猛和尚は願主中興開基で、宝暦5年(1755)大本山増上寺から寺号を、安永6年(1777)芝の増上寺から(霊應大増正)山号を総本山知恩院から(教應大増正)院号を許され「光明山摂取院蓮光寺」と称した。扁額は増上寺大増霊應の書である。
 勇猛和尚は天侯不順の年、吾妻山に登り1字1石の経塚を築き祈祷して法力を示し「一切経山」「浄土平」地名発祥のもとになったと伝えられる。又、信達霊場を巡遊してその土を集め「土大仏」を作り、更に6尺の青銅大仏を造立し、種々奇特をあらわし、人々はその功徳を尊信し近世の名僧といわれ大本山増上寺の席次に連なり良弘上人と称し帰郷して蓮光寺中興開基となった。
 天明2年(1782)7月28日66歳で還化されている。
 墓碑「開基汯蓮社良広上人不輟勇猛和尚」

 当山の御利益は「火災除け」。境内に「半日地蔵」があり、これを拝めば働き過ぎから起きる「そら手」「腕のいたみ」はとれるという。
 「一切経山」・「一切経目録輪蔵」供養塔・「奉納大乗妙典日本廻国」は貴重な文化財として福島市文化財誌に載せられている。
 福島市笹谷字寺町17番地

[PR]
by shingen1948 | 2015-05-31 10:40 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)