地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山田村の「東屋沼神社」の風景から小田村へ繋ぐ道

 田沢地区の「東屋沼神社」に、図説「福島市史」が解説する信達の里の吾妻信仰の原形が残っていると感じたことと見比べながら山田村の風景を見まわしてきた。
 前回は、その風景と山田村開発の話が結びつきそうだということで整理した。
 その山田村開発の話は、その関連資料をあまり見かけないが、井野目村開発、笹谷村開発、矢野目村開発に伴うその関連堰の開発の話と同類の話だと思う。特に、有名なのは西根郷の開発に伴う西根堰の開発、特に上堰の開発で、こちらは資料も充実している。
 強いスポットライトが当たる話がある分、山田村開発のような小さな話は、その陰に隠れて目立たないのだが、視点を変えれば、日常の風景に完全に溶け込んだ開発の状況ともとれる。
 この地の身の丈に合った開発と見る事もできるようにも思うのだ。

 次に気になったのが、「歴史地図【半沢光夫】」の「平田地区の開拓をみるフィールドワーク地図」に紹介される「洽田記の碑」だ。次のようにメモされる。
 文化5年(1808)2月
 関宿藩(千葉県)大森陣屋に名主らが願い出て沼を開削
 現在の平田小北側一帯の干害を防いだ記念碑
 代官所より費用10両で下賜される
 整理してきた山田村の南側の農耕地は、小田村の北側でもあるわけで、その農耕の願いに伴う開発だったということでの興味だ。
 ただ、地図を見る限りでは、中井川筋の上流は確かに山田村の領分だが、平坦地に下りてきてからは、この川筋を挟んだ南側は小田村の領分のようなのだ。最近、城山の西側に熊が出没しているというニュースをみたこともあるので、これを言い訳にして「洽田記の碑」を確かめは後の機会にしようと思っている。

 その前に「山王道」の道筋が分からないと確認ができないということもあるので、今回は、「平田地区の開拓をみるフィールドワーク地図」と照らし合わせて、小田村側の高台と山田村側の高台の間を結ぶ「山王道」だけは確認しておこうと思っている。
a0087378_5182230.jpg ここが、水原に続く道筋と「山王道」が交わる地点で、左手に2基の石塔が見える。
 今のところ、フィールドワーク地図に示される山王道標や石塔類の位置と現況の地図とが一致した把握になっていない。
 この道筋確認で元平田小跡地や寺小屋跡地、高(光)福寺跡地などの小田村側の風景は直ぐに推定できたし、3つの旧村が合併してできた「平田村」の中心となる施設が、もっと小さな5つの村単位では「小倉村」のようだということも分かった。
 しかし、今のところ、「明内前」の「小田村道路元標」や、3つの村が合併してできた平田村の「東覚寺尻4」の「平田村道路元標」の小字名が消えていて、おおよその位置は推定できるものの、具体的な位置や風景という事になると曖昧のままだ。
by shingen1948 | 2015-05-16 05:21 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)