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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「東屋沼神社」⑧

 小社東屋治(沼)神社の位置を、「信達ニ郡村誌」では、「元標の東1町48間 東部東之内に鎮座す」と記す。そして、「里標」の項で、その元標の位置を「元標を東部戸之内里道の側に建つ」と記す。その戸之内の目印は、この山田集会所かな。
「東屋沼神社」⑧_a0087378_18245131.jpg ここでいう里道は、東西に山裾を走る道筋なのか、「歴史地図【半沢光夫】」の「平田地区の開拓をみるフィールドワーク地図」に「山王道」と記される道筋なのかは今のところ分からない。
 ただ、「大森城裏口付近を散歩して」で整理した山田村の村社である天神社やその別当寺だった「「龍音寺」、更には、この村の開拓者にかかわる寺「好国寺」などはこの山王道の先にあって、中心的な施設はこちらの道筋に沿っているようにも思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13989115/
 ここで、山田村の開拓者長尾久右衛門を整理しているのだが、この時点で開拓される新田がどこなのかの確認をしていない。
 この寛永7年(1630)の山田村開拓は、米沢藩が、慶長6年(1601)に徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封されたこととのかかわりで、当然新田開発が伴うはずなのだ。
 まだ確認できていないのだが、そのことと今回の「東屋沼神社」が似合う風景を求めて確認した地域が重なるのではないかなと今のところ勝手に思っている。
 長尾氏の開拓地は、福島市史の延享4年(1747)「山田村明細帳」の項で確認できるとの事なので、集中力27分しかない座学不得意者だが、いつかは確認しておきたいとは思う。

 なお、先に城山散歩とのかかわりで、地域的に「大森」として整理している以下の「城裏口の石造供養塔(板碑)」や「奈良輪家旧地」なども行政的な境界でみれば、この山田村に属している。
 〇 城裏口の石造供養塔(板碑)~大森城付近
 http://kazenoshin.exblog.jp/13951215/
 〇 旧奈良輪家
 http://kazenoshin.exblog.jp/13970982/
 〇 奈良輪家旧地推測~大森城裏口付近
 http://kazenoshin.exblog.jp/13964584/
by shingen1948 | 2015-05-14 18:28 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)