地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「東屋沼神社」④~山田大清水③~羽黒山碑

a0087378_1049168.jpg 「山田大清水」の池の畔には羽黒山碑と「竃神」碑が建つ。元々は「竃神」碑の前辺りまで大清水の池だったのだろうと想像する。
 案内板では、その中の「羽黒山」碑について次のように解説されている。
 「「羽黒山」碑の側面にも信夫大清水として、その由緒が有志者20数人の名とともに刻まれ、明治27年6月に建立されています」
a0087378_10494880.jpg これは、「羽黒山」碑の右側面だが、実際に読めるのは左端の一行の「大権現御手洗水○縁?」だけだ。
 これが「その由緒」とされる「昔舒明帝ノ石姫皇后 本村ニ暫ク留マリ給フ時 コノ池ニテ 手洗ヒ給フ 後ニ 信夫山ニ行カレテ住ミ給フ」についての一部だろうとは直ぐに推測できる。
 この側面部分では、所々読めそうな文字はあるのだが、その意まで推定できそうなところはない。ここまでだ。
 裏面部分には、名前らしきものが刻まれている事が分かる。ここに「有志者20数人の名」が刻まれたものとは思う。「明治27年6月建立」が刻まれるのも裏面らしいことも分かるが、確認はできていない。

 これ等の事から、「羽黒山」碑が信夫山とのかかわりを思わせるものであることが分かる。
 「信達ニ郡村誌」の「山田村」の紹介を確かめると、ここが信夫山の風景に似ていると思わせる次のような記述もある。
 「上古伊達信達ノ地湖匯タリシ時 此近傍ノ地ヲ水保郷ト称ス 後湖洩レ陸ト為ルニ及テ 居人山間ニ就テ田ヲ開キ村落ヲ成ス 因テ山田村ト称ス」
 ※ 「匯」は水がめぐる意
 「此近傍ノ地」が「水保郷ト称ス」という風景は、「上古伊達信達ノ地湖匯タリシ時」の信夫山伝説の風景と似ているということだ。その上で、古跡の「山田大清水」の項で、「黒沼神社」祭神石姫皇后が、信夫山に移られる前にこの地に「暫く留まられた」と紹介されているのだ。

 単なる散歩人の想像だが、この地にはその修験系の霊地である信夫山との関連性を強調したい精神的な基盤もあったのかも知れない。「羽黒山」碑は、その象徴ではないのかなと思うのだ。
 それ等が、明治27年頃のこの村の精神的な基盤にあったのかもしれない。

 なお、「信達ニ郡村誌」の「山田村」の項では、上杉家臣長尾大学が、本村に居り平民と為り山田意休と称す 寛永7年別に帳簿を作り開拓す」と紹介される。その事について、「福島市史資料叢書」は、その注釈で「山田意休は、長尾大学の子で久右衛門と称した。大学が意休と称したのではない」と修正している。
 史実的に、この村が寛永7年上杉家臣長尾大学氏の子久右衛門氏が山田意休と称して開拓したということがあるということかな。
by shingen1948 | 2015-05-08 10:55 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)