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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩32~「もう一つの奥の細道」とかかわって

 「奥の細道」の芭蕉を追う「はて知らずの記」の正岡子規も仙台にやってきた事については先の「仙台散歩」でふれている。
 「仙台散歩⑭~「芭蕉の辻」⑤~「もう一つの奥の細道」とかかわって」と「仙台散歩⑯~「芭蕉の辻」⑦~「もう一つの奥の細道」とかかわって③」では、「奥の細道」の芭蕉を追う正岡子規について確認した。
 〇 「仙台散歩⑭~「芭蕉の辻」⑤~「もう一つの奥の細道」とかかわって」
 http://kazenoshin.exblog.jp/20986339/
 〇 「仙台散歩⑯~「芭蕉の辻」⑦~「もう一つの奥の細道」とかかわって③」
 http://kazenoshin.exblog.jp/20998316/
 そして、「仙台散歩⑰~「芭蕉の辻」⑧~「もう一つの奥の細道」とかかわって④」では、その子規が追う松尾芭蕉が元禄2年(1689)5月(新暦6月)に仙台にやってきたことについて整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/21001866/

 子規が追う「奥の細道」の芭蕉は、ここ榴ヶ岡では「躑躅(つつじ)が岡はあせび咲く頃なり。(中略)薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ」と記す。その後、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に追加指定されたという陸奥国分寺跡(若林区)の方まで足を延ばす。
 芭蕉を追う子規も榴ヶ岡にやってくるのだが、その道筋は、大筋としては、前回の「仙台散歩」と今回の「再び仙台散歩」で歩いた道筋に重なる。脇道に逸れたり、よそ道に入り込んだりはしているのだが、大筋としては芭蕉の辻から新伝馬丁→名掛丁→ニ十人町経由で榴岡の道筋を歩いているのだ。

 榴ヶ岡公園については、次のように描写する。
 「29日つゝじが岡に遊ぶ。躑躅岡とも書き山榴岡とも書きて古歌の名所なり。
仙台停車揚のうしろの方にあたれり。杜鵑花は一株も見えざれど桜樹茂りあひて空を蔽ひ日を遮ぎり只涼風の腋下に生ずるを覚ゆ。花咲きいづる頃想ひやらる。
 天神廟あり釈迦堂あり。天神廟内に俳句などを刻みたる碑の累々として 悪句捨所の感あるは雅中の俗なり。(可なる者只買明蓼太二人の句のみ)」

 子規は「天神廟内に俳句などを刻みたる碑」を一句一句読んで評価する。流石だと思うが、地元資料ではその子規の紹介を見ないのは当然かな。ただ、子規は誰もが認めるその道の権威者であったりする方のお気に入りの句でも、勝手に添削してしまう方だとも聞いている。どなたにも対等の立場で自分の思いをぶつけられる方ということのようなのだ。ましてや、郡山近辺では権威をひけらかす嫌味な人々に遭遇した後なので、気にする事ではなさそうだ。
 手持ち資料と見比べ、子規が「可なる者」と評価したの2句を確かめる。多分、こちらだと思う。
 〇 五月雨やある夜ひそかに松の月 <雪中庵蓼太嚢菴白麻建之>
 〇 啼うかと山みればやまほととぎす 桃樹庵買月 <文政10年(1827)5月 社中建之>
a0087378_126553.jpg 芭蕉が訪れた榴岡と子規が訪れた榴岡で違うのは、明治8年(1875)に編成された第2師団歩兵第4連隊がニの丸から移転駐屯していたことだ。
 子規は、そこを次のように描写する。
 「桜の並樹に沿ふて見込み深く柵をめぐらしいかめしき番卒の睨みたるは兵営にして俗中の俗なり。若し兵営よりして謂はゞ俗中の雅にやあらん。我は只仙台公園のこゝに在らぬを怪しむのみ」

 兵隊の行列白し木下やみ  子規
by shingen1948 | 2015-04-28 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)