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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩28~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑧

a0087378_1073532.jpg 「芭蕉ゆかり、国の名勝に 文化審答申【河北新報(2014/11/23)】」の記事中、「樹齢300年を超えるシダレザクラやシラカシの古木が並ぶ境内と公園の一角が、当時の趣を今に伝える」とあったシラカシの古木は、こちらなのだと思う。
 脇に「保存樹木(指定番号199・種別シラカシ・樹齢約300年・所有者榴岡天満宮・平成11年7月16日指定)」の案内板が建つ。
a0087378_1083169.jpg シダレザクラの古木がこちらなのだとは思う。
 「仙台市制施行88周年記念(名木古木88選 しだれさくら 樹齢約310年・所有者榴岡天満宮昭和52年11月10日指定)」の案内板が建つ。
 ちょっと寂しい風景でもある。
a0087378_1010438.jpg これは、以前は別々の社殿だった境内社の八幡神社と妙見宮が、1棟に合築で新築されたものなのだとか。右手が八幡神社のようだ。これが躑躅岡天満宮の摂社なのか、それとも、この地に元々祀られていたものなのかは分からない。

 躑躅岡天満宮を、芭蕉も訪れた「おくのほそ道の風景地」との見え方で整理したが、気になる別の見え方がある。
a0087378_10155075.jpg
 この躑躅岡天満宮は、寛文7年(1667)に仙台第2代目藩主伊達忠宗公が、東照宮を造営するに際に、その地にあった小田原天神社を榴ヶ岡に遷宮したものだということにかかわる見え方だ。
 ただ、藩主を視点に眺め直すと、この表現にちょっと違和感がある。確かに、この時期は北東部に向けて城下が拡張された第2次拡張(正保・寛文年間/1644~1673)の最中という連続性の変革の中ではあるようだが、年代的に微妙なズレのようなものをかんじるのだ。
 仙台第2代目藩主伊達忠宗公が東照宮を造営が完成するのが、承応3年(1654)のはず。その4年後の万治元年(1658)には、忠宗公は亡くなっている。第2代目藩主伊達綱宗公がその跡を20歳で継ぐが、2年後の万治3年(1660)には逼塞し、その跡を第3代目藩主伊達綱村公が2歳で継いでいる。
従って、寛文7年(1667)は第3代目藩主伊達綱村公の時代のはず。この時藩主は9歳で、伊達騒動の寛文事件は寛文11年(1671)の時までは、伊達兵部による後見専制なのだと思われる。
 ということは、寛文7年(1667)の躑躅岡天満宮移転は、伊達兵部による後見専制の時代で、名目上は藩主である綱村公の事業だが、実質的にはこの叔父さんの仕事だ。
 その移転された躑躅岡天満宮を、釈迦堂、榴ヶ岡公園、「木の下(陸奥国分寺跡・薬師堂)」が整備されるのは元禄8年(1695)だ。綱村公37歳かな。こちらは、藩主主導で実施された事業だろう。

 もう一つ確認しておきたいのは、躑躅岡天満宮の前身である小田原天神社は、仙台第2代目藩主伊達忠宗公が東照宮を造営する間はその東隣に移されていたようだということだ。承応3年(1654)に東照宮は完成するのだが、それから13年間は、小田原天神社はそのまま東照宮の東隣に鎮座していたということだ。

 更に、躑躅岡天満宮の前身である小田原天神社の地が、東照宮鎮座地に選定された理由の一つが、天正19年(1591)に、徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終えて帰途のおりに、当地で休息されたというのがあるようだ。これも躑躅岡天満宮の前身である小田原天神社の由緒の一つとしての特記事項かな。
 このことについて更に見方を変えると、そういう古道の道筋がこちらにもあったのかなということになるが、そこまでいけばよそ道にずれ過ぎかな。
by shingen1948 | 2015-04-22 10:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)