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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩27~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑦

a0087378_1223535.jpg 先に、元禄8年(1695)に仙台第4代目藩主伊達綱村公が釈迦堂を造営した際に、この天満宮も整備された事についてふれたが、この唐門が、その当時の姿を留めているのだとされるようだ。

 元禄8年(1695)の綱村公の整備事業は、釈迦堂、榴ヶ岡公園、躑躅岡天満宮にとどまらず、仙台領内にある名所・旧跡も再整備されているようなのだ。
 その中心的な役割を勤めたのが大淀三千風氏とのことだ。芭蕉を案内した加右衛門氏も、その三千風氏の弟子としてこの事業に参加しているのだとか。
 玉田・横野・木の下(陸奥国分寺跡・薬師堂)は、この再整備の際に、歌枕と関連付けられた名所とのことだ。

 その大淀三千風氏は、およそ15年間松島と仙台で過ごしていて、仙台俳壇の基礎を築いたとのことだが、その名声が芭蕉の耳にも届いていたという事なのだろう。「曽良随行日記」に「三千風尋ルニ不知」とあることから、芭蕉がその三千風氏と合うのを期待して仙台に入ったことが分かる。
 その三千風氏は、天和3年(1683)5月4日に仙台から全国行脚の旅に出る。その後、旅の途中の貞享3年(1686年)10月に仙台に戻って、翌年3月までは仙台の亀岡八幡宮に逗留していたとのこと。
 芭蕉が仙台を訪ねたのは、その2年後の元禄2年(1689年)5月5日だ。残念ながら、この時には三千風は仙台を離れて、「日本行脚文集」の旅にあったということのようだ。
 それでも、芭蕉一行は三千風氏の弟子とされる加右衛門氏に出会え、その案内で5月7日には、この躑躅岡天満宮にも訪れていることについては、先にふれた。
 「快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮を拝、玉田・横野を見 つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行 薬師堂古ヘ国分尼寺之跡也 (曽良随行日記)」

 芭蕉つながりになってきたが、この躑躅岡天満宮を中心に「政岡墓所周辺から榴岡公園へ」で今回の散歩を整理した辺りが、「木の下(陸奥国分寺跡・薬師堂)」と共に、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に追加指定されたという情報を見た。
 今回整理の「元禄8年(1695)の綱村公の整備事業」とのかかわり深い地域のようだ。
 「芭蕉ゆかり、国の名勝に 文化審答申【河北新報(2014/11/23)】」
 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201411/20141123_15013.html
 仙台市の榴岡公園(宮城野区)と陸奥国分寺跡(若林区)の一部が、松尾芭蕉が訪れた国の名勝「おくのほそ道の風景地」に追加指定される見通しとなった。文化審議会が21日、文部科学省に答申した。仙台市内の名勝指定は約70年ぶりで3例目となる。
 「奥の細道」に芭蕉は「躑躅(つつじ)が岡はあせび咲く頃なり。(中略)薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ」と記した。
 「天神の御社」は榴岡天満宮のことで、公園西部と合わせた約3.1ヘクタールが名勝となる。樹齢300年を超えるシダレザクラやシラカシの古木が並ぶ境内と公園の一角が、当時の趣を今に伝える。
 陸奥国分寺跡は、伊達政宗が再建した薬師堂を中心に約5.3ヘクタールが指定される。薬師堂周辺の社寺林やイチョウも芭蕉が訪ねた当時の面影を残し、准胝(じゅんてい)観音堂の近くには、18世紀建立の芭蕉句碑が残る。
 市文化財課の担当者は「芭蕉に関連した名勝がある他の近隣自治体と連携した観光施策など、活用の可能性が広がる」と期待する。
 仙台市内では「秋保大滝」(太白区)が1942年、「磐司」(同)が45年にそれぞれ名勝に指定された。「おくのほそ道の風景地」には現在、11県の計18カ所が指定されている。このうち県内は「末の松山」(多賀城市)「武隈の松」(岩沼市)など5カ所。

by shingen1948 | 2015-04-21 12:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)