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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩25~政岡墓所周辺から榴岡公園へ⑤

a0087378_5115479.jpg 「榴岡」と「二十人町」の辻標越しに宮城野橋方面のニ十人町の道筋を眺めれば、大年寺断層線それ自体は曖昧だが、明かにこちら側に向かって上り坂になっているのは実感できる。
 この榴岡公園の地は、長町―利府断層と大年寺断層に挟まれた隆起地で、仙台城下町割を観点に眺めれば、東端ののりしろ部分になる。しかし、時代を遡れば、藤原泰衡が本陣を敷いたとされることに象徴されるような重要な地点だったという。(ただ、未だ遺構は発見されていないとも)

 今回は歩かないが、この東側の長町―利府断層線に沿ったライン周辺は、縄文時代から古墳時代といった古くからの遺跡が重なる連綿とした時間の厚みを持った地域であるとの情報もある。
 古代陸奥国に律令国家の出先機関である国府多賀城や、官寺の陸奥国分寺という仙台市若林区木ノ下もこのライン上にあるようだ。
 地域ではこのラインに沿う古い道筋は想像しているようだが、これを東山道とはせずに、東街道という言い方をする。少なくとも古代道がこのライン上にあったとは考えているようだ。
 (こちらは、陸奥国分寺の遺構から奥州藤原氏の勢力がおよんでいたのではないかと思われる掘っ建て柱群列が発掘されているとの情報も)
 いずれにしても、もはや風景から萩の花咲き乱れる宮城野も、あせび咲くつつじが岡も感じる事はできないのだが、この地の高低差を意識することで宮城野であったことも榴ヶ岡であったことも想像することは可能だ。
a0087378_5211397.jpg 「平泉雑記(相原友直)」では、鞭楯城とするこの榴ヶ岡を「今ノ仙臺城東釋迦堂天満宮ノ地ナリ」としている。その釋迦堂から道案内に沿って、榴ヶ岡公園を眺めながら天満宮に進む。
 この躑躅岡天満宮は、2代藩主伊達忠宗の時に、東照宮造営に際してその地にあった天神社を移したものという。その後、4代藩主綱村が、先に整理した釈迦堂を造営した元禄8年(1695)の際に、この天満宮の本殿と拝殿等も整備したのだそうだ。
 ただ、その当時の姿を留めるのは唐門だけだとも。
by shingen1948 | 2015-04-19 05:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)