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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

再び仙台散歩24~政岡墓所周辺から榴岡公園へ④

 仙台城下町割辻標の碑文に、「文治5年(1189)源頼朝の平泉攻めに備え、藤原泰衡が陣をお置いた鞭舘は当地という」とある。「仙台の古地図を楽しむ」ページの大正元年の地図では、「榴岡公園」に(鞭楯古壘)と記されている事とかかわるのだろう。
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 直接に読んだのではなく、紹介されているものを見たのだが、「平泉雑記(相原友直)」に「鞭楯城(ムチタテジョウ)」とするのが、それだろうか。
 宮城郡國分荘躑躅岡ハ、古ヘ鞭舘ヲ構ル所ナリ、頼朝公奥入ノ時泰衡カ出張セシコト東鑑ニ出タリ、又榴岡トモ書リ、今ノ仙臺城東釋迦堂天満宮ノ地ナリ、○観亦聞老志ニ云、宮城郡南目村有高岡謂山榴岡、東鑑稱國分鞭楯古壘、蓋此地也、郷人不詳奮址、風土記曰、躑躅岡在府之西、府乃多賀國府也、出紅躑躅官以之摺衣號都々茲摺、
 とりつなけ玉田横野のはなれ駒つゝしか岡にあせミ花咲 河内
 先に阿津賀志山防塁の整理をしているが、それとのかかわりだ。
 泰衡は、頼朝が奥州に向かっていると聞いて、すぐに阿津賀志山に要害を固めている。
 更に、苅田郡に城郭を構えて名取広瀬の両河川から水を引いたという。
 そして、泰衡自身の陣取りだが、「泰衡者陣于國分原 鞭楯 亦栗原 三迫 黒岩口 一野邊 以若九郎大夫」とのことだ。
 「泰衡は国分原・鞭楯に陣す」で、総大将藤原泰衡自身は後方の国分原鞭楯に陣を構えたということだ。その陣を構えた「国分原鞭楯」がここだろうということのようだ。
 ここを、「泰衡自身は国分原に陣取り、鞭楯、栗原、三迫、黒岩口、一野辺に軍勢を置いた」と読むのもみるが、「亦」以下が「以若九郎大夫」でいいのではないかなと思う。
 文治5年(1189)8月8日に阿津賀志山で最初で最大の合戦となるのだが、たった4日間の戦いで平泉方は決定的な大敗北となる。国分原鞭楯に本陣を構えた泰衡だが、戦わずして敗走。平泉まではたどりついたが、館に火をかけてさらに北へ逃げるたという。
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 散歩中に気になったのは、この土手状の風景だ。
 「仙台城下の町名由来と町割」に榴岡の項で、「桜の馬場」について次のように説明する。
 「(釈迦堂の)南に桜の馬場と射的場を設けた。馬場の両側には京都から取り寄せた枝垂れ桜数百株楓千株を植え、四民に開放した。馬場の南には黒門があり堂の門前坂下に茶屋があった」とある。
 その「馬場の南には黒門があり」の風景と重なると想像するのはどうだろうか。更には、「鞭楯古壘」ともかかわらないかなと思うのは、深読みし過ぎだろうか。
by shingen1948 | 2015-04-17 17:03 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)