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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩⑰~伊達家墓所(政岡墓所)④~三沢初子の墓所

 この地は本来「徳川振姫の墓所」なのだろうと思うが、案内板では「三沢初子の墓」を中心に案内する。その墓所は、この墓所の奥に配置される。こちらも朱塗りの豪華な廟と、山門があったという。
a0087378_654331.jpg こちらも、明治2年に(薩長軍に據り)廟を破却させられる状況になったようだ。現在の墓石に改められたのは明治12年(1879)で、それで墓石の部分が新しく見えるということらしい。なお、こちらの浄眼院殿の御霊屋唐門は、新寺小路の成覚寺に移築されているとも。

 案内板の説明に「寛文事件(伊達騒動)の時には、12年にわたり幼君亀千代を守って辛労した。歌舞伎「先代萩」の正岡は、三沢初子をモデルにしたものと言われている」とあるように、ここを政岡墓所と称すること自体、三沢初子の墓所である事へのこだわりだ。

 「12年にわたり幼君亀千代を守って辛労した」その「幼君亀千代」は、仙台藩伊達家の江戸屋敷にての第1子であり、この方が2歳で第4代仙台藩藩主となった伊達綱宗であることは誰もが知っている事として説明されない。伊達藩の寛文事件の中心的出来事の一つが4代藩主の毒殺未遂事件で、よく知られているということを前提としているからのようだ。

 徳川振姫と三沢初子のかかわりも、誰もが知っている事として説明されないが、当方にとっては確認事項だ。
 徳川振姫の老女が叔母の紀伊が、三沢初子の叔母で、三沢初子はその縁で振姫の侍女となったとのことだ。その初子は、容姿端麗で天性聡明であったので、2代藩主忠宗は振姫と相談して、彼女を世嗣の3代藩主伊達綱宗の側室としたとのこと。ただ、綱宗は正室を迎えていないので、初子は実質的には正室だったとのことだ。
 この情報、「2代藩主忠宗は振姫と相談して」とあるのは、忠宗公の姫は徳川振姫であることとのかかわりかな。
a0087378_702620.jpg 御廟所境内には、初子作の歌が刻まれた碑が建つとの情報があるが、それがこれだろうと思う。
 刻まれるのは「ひとふしに 千代(ちよ)をこめたる 杖ならば つくともつきじ 君の齢(よわい)は」という三沢初子真筆の歌なのだとか。

 伊達家墓所(政岡墓所)をぐるりと回って、捉えたことと家に戻って得られた情報を照らし合わせて整理した。

 ここから周辺の寺町を歩くのだが、思いつくままに、フラットな状態で、ただ寺町を歩く。
by shingen1948 | 2015-04-08 07:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)