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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩⑤~「名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡」情報④

 「三浦屋」跡の情報を確認し始めたのは、何となくしっくりしない感覚があったからだ。その主たる原因が、名掛丁の通りが消滅しているからだと気がついたのは、地下道を通って西口に向かう時だった。
再び仙台散歩⑤~「名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡」情報④_a0087378_12551927.jpg これは、仙台市ホームページ「杜の都 緑の名所100選」で青葉山公園整備に伴って「島崎藤村詩碑」が移転先を案内する地図だ。それまで青葉山公園にあった「草枕」の一節が刻まれた藤村の詩碑が、平成19年8月に藤村の下宿跡近くにある「藤村広場」に移転したことを案内するものだ。
 その地図に赤線でなぞったのが名掛丁の通りだが、この通りが消滅しているのだ。
 http://www.city.sendai.jp/kensetsu/ryokka/midori100/guide/015/015.html
 この地区を知っている人にとっては当然の事なのだろうが、初めて来た者にとっては、この通りが消滅しているという状況が把握されていない事での違和感は結構大きい。
 二つの〇印は、東六番丁の通りとの交差地点と東七番丁との交差地点だ。
 東六番丁の通りとの交差地点から東が名掛丁119番地であり、東六番丁の通りに沿って、もう一区画分名掛丁119番地がある事については先にふれた。
 中央辺りに120番地を想定し、その120番地が宮城第一病院の拡張に伴って拡大したのではないかなとの勝手な思いがある。

 東七番丁との交差点から榴ケ岡までの一筋の道筋が、二十人町の通りというイメージのようだ。
 この通りについて、「仙台城下の町名由来と町割り」では次のように紹介する。
 名掛丁の東端、小田原車町東角から榴ケ岡までの一筋の通りが「二十人町」である。寛文年間に鉄砲町と共に二十人町が割り出されたが、武功のあった二十人衆という鉄砲足軽を増員して一組に、この町に置いたのが名前の由来である。
 この町の特徴は、二十人衆だけが御城に向かって弓鉄砲の練習を許されていたという事とかかわっているようようだ。「鉄砲足軽二十人衆と稽古場の町」としての特徴について以下のように紹介する。
 矢先神社の境内にある星場(的場)が稽古場だった。この町は道筋を鉤型に曲げ、さらに道幅を狭くする事にことで見通しを悪くし外敵が侵入しにくくしたばかりでなく、故意に道幅を狭く割って敵の行動を不自由ならしめたといわれている。都市計画の開通で風景が一変した。
 都市計画の開発で二十人町の特徴が消滅した事についての紹介は、他でも見かける。しかし、この道筋自体は広げられて存在する。
 それに比べると、全く消滅してしまった名掛丁の通りの案内をあまり見ない。地域に疎いので、散歩中は藤村広場前の新道が名掛丁の名残りと勘違いによる混同の感覚があったように思う。
 今回、駅を渡るのに地下道を使ったことで、その消滅を体感的に納得できたように思う。
by shingen1948 | 2015-03-25 12:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)