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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び仙台散歩④~「名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡」情報③

 仙台の用足しのちょっとの合間に簡単に立ち寄れたのは、開発によって便がよくなったからだ。ただ、そこに求めている風景は、宮城野の見るべきものは何もないという荒野の風景だ。
 ここ名掛丁藤村下宿「三浦屋」跡も、簡単にたどりつける便利さを享受しながらも、求めるのは元々の風景イメージというところがある。
a0087378_6505278.jpg 真新しい「塩釜神社」が藤村広場の東手に見える。これも、元々は藤村広場の西手にあったとのこと。このことについては、奥に掲げられる「塩竃神社」の由来書きで分かる。区画整理事業の中で、隣の「三吉神社」と共にここに移築されたたとのことだ。その旧地が、三吉(みよし)神社があった東六番丁29番地の隣接地との情報も。

 先の「仙台地図散歩」で案内される「仙臺市全図(大正元年)」で確かめると、「塩釜祠」の東六番丁に沿った北側に119番がふられ、参道を挟んでその南側に29番がふられている。この情報と合わせると、この119番が名掛丁にふられた番地で、29番が東六番丁にふられた番地なのかなと想像する。

 この由来書きでは、この神社が塩釜市に有る「塩竃神社」の仮宮であったことを起源とされることも分かる。また、その創建当時は、現在の仙台駅北側に当時あった「高福院」の境内に在ったとのこと。
 その「塩竃神社」の仮宮があった高福院は明治20年に荒町・満福寺に合祀されたとのことだが、「若林区の魅力発見事業」のページには、「荒町・満福寺」の他に明治40年(1907)に廃寺になった「高福寺<藤塚>」(真言宗)や「高福院(天台宗)観音堂<今泉>」等のその関連性が気になる情報がある。
 「塩竃神社」の由来
 寛文3年(1663)仙台藩4代藩主となった伊達綱村は、塩釜の塩竃大明神(塩竃神社)を修造する際に原田甲斐を修造奉行に、三分一所典膳を副奉行に任命し、塩竃神社の奉幣および勅額を東六番丁にあった高福院境内に仮宮を設けて安置しました。
 当時は神仏混淆の時代のため、寺院と神社が同居していました。
 1680年に塩竃神社が完成して御神体は塩釜に移されましたが「塩竃神」を尊拝する町内の氏子が、仮宮を廃殿にするには忍びないという思いから、新たに塩土老翁神(しおつちのおじのおきなのかみ)を迎えて、その名を塩竃大明神として大事に祀ってきました。その後、明治20年に東北本線が開通すると線路並びに仙台駅舎が東六番丁と名掛丁の間に造られたために、高福院は荒町・満福寺に合祀され、また、明治維新後は神仏分離思想が広がっていたために塩竃神社の居場所がなくなってしまいました。
 そこで、町内の氏子有志が東六番丁を挟んで東側にすでにあった三吉(みよし)神社(東六番丁29番地)の隣接地を買い求め、三吉神社境内に塩竃神社を移築しました。
 そして、平成14年2月、仙台駅東区整備事業にともない、この地に再度移築されました。
 当神社は、安産・交通安全・縁結び・初恋成就などの祈願に多くの参拝者を集めている。

by shingen1948 | 2015-03-24 06:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)