人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

仙台散歩⑰~「芭蕉の辻」⑧~「もう一つの奥の細道」とかかわって④

 「もう一つの奥の細道」の子規は、仙台駅からやってくるのだが、その子規が追う松尾芭蕉は、この芭蕉の辻を南北に横切る奥州街道を南側からやってくる。
a0087378_4493825.jpg これは、その芭蕉の辻から奥州街道の南側を見た風景だ。
 芭蕉の辻の南側の道路が国分町通り側より広いのは、南町から芭蕉の辻まで短い盲腸線のような市電が走っていた痕跡なのだとか。路面電車を通すために拡幅されたのだそうだ。その芭蕉の辻線は、他の線より早く昭和19年(1944)に廃止されたとのこと。

 子規が追う松尾芭蕉が仙台にやってくるのは、元禄2年(1689)5月(新暦6月)。
 曽良の日記によれば、4日(新暦6月20日)の夕方に仙台に着いて、その夜は、国分町の大崎庄左衛門宅に宿すようだ。その時にこの辻を通った事は確実なのだが、その日の宿である「国分町の大崎庄左衛門宅」は不明のようだ。ただ、先にふれた大泉旅館は元禄の時代には存在していたようで、こことする説もあるようだが、確かさには欠ける情報だ。
 5日(新暦6月21日)には、翁(芭蕉)が仙台藩士・橋本善衛門殿への紹介状を持参して宿を求めるが、後で家臣・山口与次衛門が宿を訪れて断りを入れられる。それで、今度は曽良が須賀川の吾妻五良七からの紹介状を持参して、大町二丁目の泉屋彦兵衛宅内の甚兵衛方ヘ届ける。しかし、あいにく甚兵衛は留主だった。その甚兵衛が後で来訪してあうことはできる。それで、大淀三千風のことを尋ねるが、消息はわからなかったのだとか。三千風の委細を知るのは、北野屋加衛門に逢ってからのようだ。
 この北野屋加衛門氏宅は、国分町より立町へ入って、左の角の家の内とある。
 「奥の細道」本文から、加衛門(北野加之)氏は絵かき職人で、いささか情趣を解する者と聞いて知り合いになった方であることが分かる。
 6日(新暦6月22日)は、天気がよくて亀が岡八幡ヘ参拝しているようだ。仙台城の追手門から入ったが、にわか雨にあって茶室で休んだ後、雨が止むのを待って宿に帰ったという。
 7日(新暦6月23日)は快晴で、絵かき職人加衛門(北野加之)の案内で市内を観光するようだが、これが「おくの細道」本文と重なる。
 巡った先を「おくの細道」本文と曽良の日記から「おくの細道」本文から拾ってみる。
 「権現宮(本文では仙台東照宮)」・「あせびが咲くころの玉田、よこ野、つつじが岡の天神」・「茂った松の林の木の下」。
 この「木の下」は、昔も露が深かったので、古歌で「御侍(ご家来)よ、ご主人に『御笠を』と申されよ」と詠まれたのだとか。
 他に「薬師堂」・「いにしえの国分寺の跡」を廻ったようだ。
 そして、8日(新暦6月24日)の朝は小雨が降っていたが、午前10時頃より晴れ、一行は、仙台を立つ。

 この道筋、「もう一つの奥の細道」の子規も、政宗公の廟に向かうのに使ったかなと思ったが、こちらは愛宕山経由だった。道筋は、先に片平丁で整理した道筋だろうと思われる。
 門が固く閉ざされ入る事は出来なかったようだ。
 政宗公の廟に謁づ。老杉蓊欝山路幽凄堂宇屹然として其間に聳ゆ。わずかに欄間の彫彩を覗ふ。門堅く鎖して入る能はざるなり。常人死して此榮を受く則ち以て瞑すべし。公に在ては則ち此僻地に葬られて徒に香 火の冷ならざるを得るのみ。堂に其の素志ならんや。
 涼しさや 君があたりを 去りかぬる
 ただ、政宗公の廟から宿に戻るのはこの道筋だったのかもしれない。
 旅宿に帰る
 土用干や 裸になりて 旅ころも
 夕涼み 四角な処を ながめけり

by shingen1948 | 2015-03-15 06:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)