地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仙台散歩⑯~「芭蕉の辻」⑦~「もう一つの奥の細道」とかかわって③

 子規は、少なくとも仙台市内に5日間は滞在している。
 まずは、現名取駅である増田から汽車で仙台駅に降り立って、2泊する。
 次が、松島等に出かけた後、岩切から仙台に戻って1泊する。ここから「南山閣」に出かけ、そこに1泊した後、再び市内に戻って1泊する。ここに、槐園氏が訪ねて来るのだ。
 更に、次の伊達政宗の廟を訪ねた日も市内で1泊し、再び南山閣を訪ねている。

 その旅館だが、「はて知らずの記」の草稿に「針久旅館」とあることから、最初の宿泊は、国分町「針久旅館」に違いはなさそうだ。ただ、他の4泊は同じ旅館との類推なのかも知れないとも思う。というのは、子規が訪れた「南山閣」の資料では、ここにかかわる旅館を「大泉旅館」とするものも見るからだ。
a0087378_638121.jpg その「針久旅館」の本店が、大正3年発行の名勝絵入改正仙台市内全図にみえる。

a0087378_6392541.jpg こちらは、藤村がかかわる停車場前の「針久旅館」の支店。
a0087378_6425881.jpg  岩切から仙台に戻って泊まっていた旅館を「大泉旅館」だとするものも見る。ならば、連泊は「大泉旅館」とのイメージとなるのかも。こちらの旅館は、明治29年発行の名勝絵入改正仙台市内全図に見える。こちらが国分町の本店。

a0087378_6451050.jpg こちらは、その停車場前の「大泉旅館」の支店。

 なお、こちらの旅館は、更に駅前に「仙台ホテル」も創業するようだ。こちらは「東北芸術工科大学東北文化研究センター」のページで、その「仙台ホテル」と「大泉旅館」本店の絵葉書を見ることができる。

http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/Image.jsp?lang=&id=58B7DFB9-2E19-9B8F-35B5-656E2C285482&title=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%EF%BC%8F%E5%A4%A7%E6%B3%89%E9%A4%A8%E6%9C%AC%E5%BA%97

 「南山閣」を確かめると、ここは、元々仙台藩士である石田家の別荘だったのだとか。明治になって帰農した石田家に代わって、上山五郎氏が入居するようになるようだ。
 その上山五郎氏を直接確認する事は難しいが、上山草人という映画俳優の父親としては簡単に検索できる。
 産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めたようだ。妻は涌谷町の名門の医者の娘であるが発狂して、次男であった上山草人氏は、親戚の家を転々とするようだ。上山草人氏の上京時の寄宿情報から、犬養毅氏も友人であった事が分かる。漢詩をよくし、静山と号したという。
 その上山氏と交遊して、よく訪れていた方の中に土井晩翠氏の他に、落合直文氏と鮎貝槐園氏兄弟がいたということのようだ。彼等についてもよく知らないが、明治26(1893)年に与謝野鉄幹らとともに「浅香社」をおこした方のようで、子規とはこの新短歌運動を通しての知り合いだったとのことだ。

 ここでの子規と槐園氏との語り合いについては、今回は整理しない。
 ただ、福島県内の整理では表現できないので、この対立軸に子規が紹介状を携えて訪れた福島県内の方々がいらっしゃるとだけ表現しておく。子規にとっては、実力は無いが権威をかさに片田舎で威張っていらっしゃる残念な方々という存在だったような気がする。
by shingen1948 | 2015-03-14 07:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)