地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仙台散歩⑦~「芭蕉が辻へ」~ 「名掛丁と新伝馬町」のアーケード街

 勘違いや認識違いを恐れずに、散策した事を見える形に整理することを繰り返す。そうする事で、小さな矛盾が見えやすくなる。これを修正するということを繰り返しているうちに、正しい認識に近づけるようになるのだろうと思う。そういういい訳で、整理した事の修正をする。
 今回の散策にかかわる道筋の現時点での捉えを図示すると、こんな感じかな。
a0087378_73880.jpg
 勘違いしていたことを確認する。
 まずは、なぜか東2番丁通りと「東5番丁」との間の勝手な思い込みによる混乱があったこと。
 「名掛丁」と「新伝馬丁」との間付近を、現愛宕上杉通り横切るのだが、この道筋の南側が「東5番丁」なのだとか。
 「仙台城下の町名由来と町割」の「日吉丁」の項に、この「東5番丁」についてふれている。
 それによると、明治時代末頃まではこの「東5番丁」は、名掛丁までで、そこから先の元寺小路まで抜ける道筋は無かったとのことだ。そのことに絡んで「日吉丁」が説明される。
 当時、この地区の土地や屋敷の大部分は、国分町の日野屋と二日町の吉岡酒造店の所有となっていたという。
 この地域の開発が進んで家も建ち並び始めた頃、東五番丁と元寺小路間が通り抜けられないのは不便だということになり、日野氏と吉岡氏が合同で道路用地を寄付したことが、現東五番丁が元寺小路まで抜けたきっかけなのだとか。
 寄付の申し出を受けて市が公道として整備したとのことで、日野氏と吉岡氏の名をとってここが「日吉丁」と命名されたのだとか。
 「仙台城下の町名由来と町割」に描かれたこの「日吉丁」の道筋は、直線ではなくやや東側に弧を描いている。このこととかかわるのが、元寺小道の道筋だ。
 ここで、自分の勘違いではないが、ちょっとひっかかかるのが「吉岡通」。「日吉丁」の道筋とのかかわりが自然に思えるのだ。ならば、伊達騒動とのかかわりより、二日町の吉岡酒造店とのかかわりが自然でないのかなとも思えてくるが、本当のところは分からない。

 それで、次の勘違いが先に整理した駅前付近の概観図の元寺小道の道筋だ。
 先の整理時には、この元寺小道の道筋が、広瀬通りにつながると勝手に思っていたのだ。今回分かったのが、この道筋は一本北側の細道につながるような曲線だったらしいということだ。これを修正した。
 「仙台城下の町名由来と町割」の元寺小道の項を確認すると、次のように解説される。
 県庁や錦町公園、白百合学園などのある段丘は、仙台城の鬼門にあたるので定禅寺や満勝寺など寺が並んでいた。この段丘下に沿った東三番丁から車町までが寺小路で、仙台八小路の一つ。寛永14年(1637)頃、寺の一部が移され侍丁になると元寺小路と呼ばれた。小路の名は寺町や侍丁につけられた。
 ここに「白百合学園」とある地点は現「東北電力本町ビル」のようだ。
「東北電力本店ビル」を確認すると、次のような経緯が確認できる。
 東北電力本店は仙台市青葉区一番町の電力ビルにあったが、仙台白百合学園中学校高等学校の旧校地を学校法人白百合学園及びシャルトル聖バウロ修道女会から取得して、当ビルを建設し、平成14年(2002)5月9日に本店を移転した。

 「仙台城下の町名由来と町割」では、この道筋を「本町家具の街から東に向かい駅前通りを渡って東口方面に至る道筋」と表現される。地図で確認すると、廣瀬通りの一本北側の本町通りにつながる道筋が、その痕跡に近いという事らしいことが分かる。
 実は、この情報を元に図示した時には、その南側の細道と勘違いしていた。図が汚れているのは、その勘違いを修正したためだ。
by shingen1948 | 2015-03-04 07:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)