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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仙台散歩④~「仙台駅」から「花京院」周辺へ

 「仙台散歩①から④」にかかわる辺りを地図に記すと、こんな感じかな。
a0087378_5145669.jpg 仙台の地理に詳しいと自負する家人と話をしていると、「末無掃部丁」や「掃部丁」とかかわる上遠野常秀氏の屋敷跡辺りは「花京院」だという。
 その概念に従えば、その「花京院」周辺から名掛丁にかけて「X橋周辺」という感じで捉えているようだ。ここは、戦後、進駐軍相手のスタンドバーやクラブが軒を連ねる歓楽街になっていたというイメージでとらえているようだ。
 そのX橋も今年無くなって、広い道路が鉄道を跨ぐようになったようだ。それで、この面影も既になくなって、今は近代的な駅前の街並みになっている。

 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」を元に、家人が「花京院」だという辺りを整理する。
 〇 寛文・延宝年間の絵図では、末無丁は上遠野掃部の屋敷に行き当たって、東方へ鈎状に折れているとのこと。「仙台鹿の子」には「上遠野掃部屋敷四方百三十間なり元禄八年三月丁通り職人屋敷数十軒出る元寺小路下大工町北小高き通の辺なり」とあるとの紹介もみえる。
 ※ この「仙台鹿の子」を確認すると、江戸時代に記された仙台最古の地誌とのことだが、ここで紹介される内容は、明治32年発行「仙台鹿の子(大内源太右衛門 著)」に記されたことのようだ。こちらは「近代デジタルライブラリー」で確認できる。
 その32ページ後半に、「一、上遠野掃部屋敷四方百三十間なり元禄八年三月丁通り職人屋敷数十軒出る元寺小路下大工町北小高き通の辺なり(按)今の掃部丁といへるは是なり」とある。
 〇 元禄以後の絵図では、上遠野屋敷がなくなって、花京院南裏まで丁が達しているという。そして、安政絵図では、上遠野屋敷跡は御薬園地になって、それ以外は大工職人の住居になっているという。
 この御薬園地になった跡が、「仙台地図散歩」で「陸軍省用地」と表記された部分と重なるようだ。ここが、その後、鉄道官舎となったという情報も見る。現況が「東北電子専門学校+花京院公園+シルバーセンター+シティータワー仙台」の範囲辺りかな。

 上遠野氏については、「宮城県の上遠野氏」で検索して確認する。
 ① 上遠野惣領家は、盟友岩城氏が伊達氏に服従した時に帰農するのだが、一門の中に伊達氏に付き従った者があって、その子孫から願立流刀術や手裏剣を扱う撃剣家が輩出されていると紹介される。
 ② その願立流の系譜が、流祖:松林永吉― 新藤儀次― 「上遠野常秀」― 上遠野秀実― 上遠野歳秀― 広秀とのことだ。
 ここに、この屋敷の住人「上遠野掃部常秀」の名が見える。「」でくくっておいた。

 散歩情報として、この上遠野掃部常秀氏の奥さんが、寛文事件の原田甲斐の妹だったことから、甲斐の子供たちがこの掃部の屋敷で切腹させられたとか、掃部の屋敷は延宝時代の終わり頃に清水小路の方に移ったのだとかという情報をみる。
 こちらは「忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター)」を元にした情報が発信されたらしい。
by shingen1948 | 2015-02-28 07:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)