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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仙台散歩③~未無掃部丁

a0087378_620668.jpg これは、東北電子専門学校から花京院公園を撮ってみただけだった。
 「仙台地図散歩」にかかわるページで、このあたりの大正時代の様子を確かめたら、この辺りは手前に写る細い道筋しかないことが分かる。公園前に写る現駅前通りはなかったようだ。
 そして、この花京院公園と東北電子専門学校を含めた広い範囲が、「陸軍使用用地跡地」となっていた。
 大正時代には、既にこの細道はこの花京院公園と東北電子専門学校の間をつき抜けていたようだが、ここが袋小路だったという歴史があったことは後で知ったこと。
 そのきっかけが、「未無掃部丁」なるこの細道の名称を確認したからだ。
 「仙台地図散歩」で、ここが「未無掃部丁」と表記されていて、これを確かめて分かったことだ。「未無」+「掃部丁」で、「掃部丁」の「丁」は侍屋敷のまちを通る道筋。
 「丁」は侍屋敷のまちを通る道筋であることは、仙台ではどなたも知っている事のようだが、「未無」というのが、袋小路になっている道筋を現すらしいことも常識なのだろうか。
 自分は、「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「末無掃部丁(近世〜近代)」の項で確認できたことだ。
 「末無掃部丁」は、昭和45年に現行の花京院1丁目となるまで、江戸期からずっとこの町名だったようだ。
 江戸期は仙台城下の一つであったが、明治11年に宮城県仙台区に所属していて、明治22年に仙台市の町名になるという経過のようだ。
 最初は掃部丁末無【かもんちょうすえなし】と呼ばれる元寺小路から北へのびる末無丁(袋小路のこと)であったとのことだ。花京院通まで貫通するのは、明治以後のことらしい。
 袋小路になるのは「掃部」の屋敷に行き当たることによるようだが、その「掃部」の屋敷の変遷の明治末の姿が「陸軍省用地」ということのようなのだ。
 
 「掃部」の屋敷とは、上遠野(かとの)掃部常秀の本屋敷で、掃部は役職名のようだ。ここが、上遠野(かとの)常秀氏の屋敷だったということのようだ。その後、空き屋敷になるようだが、元禄8年(1695)に、この屋敷を割り振りして職人屋敷にしたという。更に、そこに藩の御薬園が置かれという。その御薬園が陸軍省用地になるという経緯のようだ。
 ということは、「東北電子専門学校+花京院公園」の敷地が、その「掃部」の屋敷ということらしい。
 なお、「末無掃部丁」の東側も通りになっているようで、こちらが職人町になった経緯の方で、掃部丁ということのようだ。
by shingen1948 | 2015-02-27 06:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)