地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕山散歩38~小説家「宮本百合子文学碑」~再び「禰宜様宮田」作品論へ②

 「禰宜様宮田」の魅力は、「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」という捉えをした。
 それが、「貧しき人々の群」では、「観察」と「主観」、「リアリスティックな要素」と「ロマンティックな要素」とがわりあい簡単な構造で結びついていて、わかりやすく現われていると木村氏はいう。
 「貧しき人々の群」での「リアリスティックな要素」は、安積開拓村の貧しい農民群像を外側から「観察」された対象でしかないとのこと。主人公は、あくまでも農民たちに同情し、善意をもって近づいて行こうとする私=百合子自身にほかならないというのだ。「ロマンティックな情感」は、作者のヒューマニスティックな「同情」が「私」の身上となって発露しているに過ぎないという。

 この「貧しき人々の群」もまた、青空文庫で読む事ができる。27分の集中力の限界を越えた散漫な読みではあるが、ともかく読んでみた。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2025_5834.html
 この作品の魅力は、「ロマンティックな情感」を持った主人公=百合子自身の目で「観察」された安積開拓村の貧しい農民群像の捉えと、「ロマンティックな情感」そのものであることの確かめだ。
 この時、百合子氏は十九歳の少女であり、「まだ社会主義もしらなければ社会科学もしらない。したがって農村における階級対階級の関係もしらない。それにもかかわらず彼女のものを正しく見ようとするリアリズムは、農村における一つの社会的現実としてこの関係を見のがすことができなかった」と言うのが、この作品の魅力の根源になっている「ロマンティックな情感」なのだろう。

 これに対して、「禰宜様宮田」の作品に、作者は直接登場しない。作者は、宮田の主体性の陰に隠れて、この主人公を同情される人物として表現する。木村氏は、これを「主人公に対する作者の『深い同情』に根ざした『主観』の現われ」とし、これが「ロマンティックな情感」の発露となり「牧歌的な要素」となっていると表現しているようだ。
 そういう好人物の農夫が、好人物であるという「牧歌的な要素」が強まれば強まるほど、その対比として商業資本・地主・高利貸をかねた海老屋の「鬼婆」の悪辣さが強烈な印象となり、その手にかかって、まるで猫の手にもてあそばれる鼠のように無力な百姓として、搾取の好餌にされるということがリアリスティックな見つめになるという関連性の捉えが大切なのだと思う。
 そういう見え方からすれば、飯坂の「詳細な観察」は、全てがリアリスティックな要素としてかかわるのではなく、むしろ、飯坂の「取材メモ」のなかから小説としてのフィクションをふくらませるというかかわりと捉えるべきなのだろうなと思う。
by shingen1948 | 2015-02-21 07:21 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)