地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕山散歩⑳~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正④

 先に宮本百合子氏にかかわる飯坂旅館にふれたことがある。
 子規の飯坂泊旅館を探している時に気になった「和久屋」旅館だ。
 これは、「飯坂温泉案内『飯坂真図』(国立国会図書館デジタルコレクション)」に描かれる明治28年頃のその「和久屋」の様子。
a0087378_6455032.jpg この宿が宮本百合子氏の小説「蛋白石」にも登場するのだ。この事については「飯坂温泉湯沢の「和久屋」の勝手な検索結果」でふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/16317285/
小説というフィクションの世界だが、篤が徒歩旅行でそこいら中の温泉を歩き廻った時の事を話す場面にこの旅館が登場する。再掲する。
 「私の行った温泉の中で飯坂の温泉はかなり気持がようござんしたよ。
 私は妙に東北の温泉へばっかり行きましたからねえ。
 和久屋ってね、
 昔お女郎屋をして居たんだって、
 作りなんか、かなり違いましたけど磨きの行き届いた広い階子や女王のきゃしゃな遊芸の上手なのなんかはどことなし他所と違ってました。
 雨なんか降ると主婦と娘の、琴と胡弓の合奏をきかしてもらいましたっけ。
 でもまあ一人で行くのに温泉は適しませんねえ。」
 こんな事を云いながら急に落つかない気持になって居た。
 この時に百合子氏とこの宿のかかわりを確認したいと思いながら、そのままになっていたことを思い出した。
 日記を確認していて、大正5年12月18日(月曜)の日記に、以下のようなこの和久屋にかかわる記述があるのを見つけたのだ。
 いくと一緒に町を一廻りして来る。いたるところにきれいな水が流れて、もうざっと10年程前にとまった和久屋は、今とまれない程きたなく見える。次第に町が栄えるにつれて淘汰が激しくなってくる。だんだん影をかくす宿屋も多かろうと思う。
 百合子氏がこの宿を訪れたのは、逆残するとおよそ明治40年頃ということになる。この頃は飯坂の転換期でもある。

 明治41年の奥州6県連合会の共進会に合わせて、福島-長岡―湯野に信達軌道が敷設されることもある。温泉の施設もそれに合わせるようにリニューアルの波が押し寄せていたようなのだ。その時代の波に、この「和久屋」は乗り遅れたということなのだろう。
 大正5年の時点で「今とまれない程きたなく見える」ように「だんだん影をかくす宿屋」になっていたということのようだ。

 与謝野晶子氏が訪れるのが明治44年で、宮本百合子氏が訪れるのが大正5~6年なので、6、7年の違い。それで、大差ないだろうと推定した。
 この推定には、飯坂大火の復興計画がかかわる滝の湯旅館形成は頭にあったが、この明治41年を境にした飯坂のめまぐるしく変遷が頭になかった。この変換点でも、旅館も交通事情も大きく変貌している事もありそうだな。
Commented at 2015-01-28 11:21 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2015-01-29 13:56
確かに、現飯坂電車はまだ登場しませんね。
車で移動していると気ずかないのですが、現飯坂街道や飯坂古道は自転車では厳しいですよね。(飯坂古道西海道はそれより少しは楽ですが)
それに比べ、湯野経由飯坂はかなり楽です。湯野経由飯坂先行は納得です。
by shingen1948 | 2015-01-28 06:48 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(2)