地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕山散歩⑱~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正②

 前回は、百合子氏の飯坂への交通手段情報を確認修正した。
 次は、宿泊旅館の情報。

 大正5年(1916)12月15日(金)から利用した角屋旅館はある程度確認できているが、大正6年(1916)3月27日(火曜)から利用した丸正旅館の確認ができていなかった。その丸正旅館は、現「福住旅館」との情報がある。
 それで、この現「福住旅館」を確認してみたら、「飯坂温泉オフィシャルサイト」で、「福住旅館の歴史にかかわって、女将が次のように応えているのをみつけた。
 http://www.iizaka.com/recommend-iizaka/vol-2/ 
 福住旅館は江戸時代からしばらくは「油屋」という屋号で親しまれており、その後、遊郭の跡地に現在の「福住旅館」として移転しました。油屋の時代から数えると私で6代目となります。(福住旅館になってからは3代目らしい)
 この情報と「飯坂温泉案内『飯坂真図』(国立国会図書館デジタルコレクション)」を見比べる。
a0087378_121334.jpg
 「油屋」という屋号の旅館は、鯖湖湯を浴場とする湯沢温泉にあったことが分かる。その位置が分かりやすいように、花水館の旧地でもある「中村屋」もプロットしておいた。
 福住旅館の現在地を「滝の湯」を中心とした「花水館」・「枡屋」、そして「角屋」をプロットしてみると、「若葉楼」跡付近らしいことが分かる。
 更に、「岩代飯坂温泉 : 十綱の栞」で、「油屋」の情報を確認すると、その代表者が「紺野ほの」さんで、福住旅館女将の名字と一致する。

 百合子氏の大正6年(1916)3月27日(火曜)の日記には、丸正旅館利用の理由が確認できる。
 「部屋が離れてあるということや金のやすいところから丸正に来る」とある。そして、「女中もすごく単純だしするので快い」とし、その湯も「透明で煙のえむらない湯に入って生き返ったような心持になった」とあり、満足している様子が伺える。ただ、「どてらが少しきたなかったのがいやだった」と女学生のお嬢様らしい注文も。

 ここから、まだ新しい旅館である事が伺える。遊郭の跡地に現在の「福住旅館」として移転して現在3代目という情報とも重なる。
 現「福住旅館」が丸正旅館との情報は、今のところ確実性が高いと思っている。
by shingen1948 | 2015-01-26 12:02 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)