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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕山散歩⑧~「与謝野晶子」歌碑⑥

 歌碑を訪ねられるような方にとっては知っていることが常識とされる氏の略歴が頭にあって、この歌碑を見ているのだろうと思う。
 当方は単に案内しただけで、その知識がない。
 それで、飯坂にやってくる明治44年(1911)頃の晶子氏と寛氏とのかかわりの中での概括的な略歴を確認することにする。

 与謝野寛氏だが、短歌革新運動の主唱者の一人で、明治32年(1899)に文学結社「東京新詩社」を結成し、翌年(明治33年)に機関誌「明星」を創刊する。
 その明星に投稿していた晶子氏が、結社の同調者を獲得するために大阪にやってきた寛氏と出会い明治34年に結婚する。この辺りは週刊誌的なネタのような興味で何となく知っている。
 そして、案内板に解説される晶子氏の第一歌集「みだれ髪」の発刊が、明治34年で、有名な日露う戦争中の長詩「君死にたまふこと勿れ」の発表が明治37年だ。

 この頃から夫婦の間の名声が逆転するようだ。晶子氏が寛氏の名声を凌ぐようになっていたらしい。
 寛氏にとっては、この夫婦間の逆転だけでなく、文学界の中でも下降線をたどるようだ。自然主義の勃興によって、北原白秋などの有力会員が脱退し、明治41年(1908)には「明星」が廃刊になっているのだ。
 晶子氏は意気消沈していた夫に立ち直るきっかけを与えるために欧州留学に奔走し、実際に送りだすのが、明治44年11月だ。
 飯坂に立ち寄る旅が、この明治44年の8月だったという状況のようなのだ。つまり、飯坂への旅は、夫の欧州留学に奔走中の時期と重なるということだ。

 これらの状況を頭において、「与謝野晶子倶楽部」のページから与謝野晶子氏の明治44年略歴を確認すると、以下のように紹介される。
1月、第9歌集歌集『春泥集』刊行
2月、4女宇智子誕生
7月、評論集「一隅より」刊行
寛の渡航費を工面するため歌屏風、歌幅等の頒布を企てる
9月、青鞜社創立、晶子賛助会員となる。「青鞜」第1巻第1号に詩「そぞろごと」発表。
11月、寛渡欧する。

 注目は、7月と9月の間に紹介される「寛の渡航費を工面するため歌屏風、歌幅等の頒布を企てる」の部分だ。
 東山温泉の新滝旅館の歌碑について、その案内板に「歌碑に刻んだ文字は当館所蔵の与謝野晶子直筆の歌から採ったものである」とあるようだ。それが、この事とかかわらないかなと思うのだが、……。
 ならば、その類の可能性が飯坂でもなかったのかなとも思うのが、それはどうなのだろうか。
by shingen1948 | 2015-01-15 16:05 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)