地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕山散歩③~「与謝野晶子」歌碑①

 吾妻山を眺めようとして愛宕山を散策したのではない。愛宕山散歩に出かけたのは、文学碑を案内するためで、吾妻山を眺めたのはそのついでだ。
 整理してはいないが、愛宕山麓に与謝野晶子の歌碑が建つのは知っているので案内はできる。

 碑の脇に建つ案内板では、以下のように説明される。
 飯坂のはりがね橋に 雫する
 あづまの山の 水色のかぜ
a0087378_17595724.jpg この歌は明治44年(1911)夏、夫、与謝野鉄幹とともに、飯坂温泉に来遊した時、与謝野晶子の十綱橋を詠んだ歌である。
当時晶子は33歳であった。
 そもそも晶子は明治11年(1878)12月7日大阪堺市に生まれ明治34年 第一歌集「みだれ髪」の発刊をはじめとし、歌集ニ十詩集1、評論13と沢山の著書を世に送り、昭和17年(1942)5月29日、65歳にて世を去った。
 遺稿歌集として「白桜集」もあります。この人こそ明治、大正、昭和にかけて、我が国が生んだ有名歌人ではないでしょうか。
 当、観光協会では、この飯坂温泉十綱橋の文学的香り高い一首を、永遠に後世に伝えるとともに、与謝野晶子の文学味の漂うものを充分に、この歌碑より当時の面影を組み取って頂き、飯坂温泉のよき旅の思い出となることを願い、建碑しました。
 昭和43年8月10日
 飯坂観光協会

 飯坂の
  はりがね
       橋 
        に
    雫する
 あづまの
  山の
 水
  色の
  かぜ

 ふくしまの舞台「飯坂温泉」には、明治44年(1878)講演会帰りで、伊達駅に降り立ち、そこからトテ馬車か軽便で飯坂に入ったとある。この時、夫の鉄幹、作家の佐藤春夫、水上滝太郎が一緒だったのだとか。
 http://www.minyu-net.com/tourist/butai/081204/butai.html
 ならば、湯野駅で降り立った一行は、湯野側から十綱橋を渡り、右折して摺上川沿いに角屋に向かったと思われる。

 当時の十綱橋の状態を確かめると、前年の明治43年8月に木製の塔が破損し、橋が下側に傾いて通行不能になったようだ。それで、応急的に橋の下に大きな柱を建てて補強したらしい。その応急的に取り付けた橋脚が大正2年8月の大洪水で流出して、中間の橋脚が要らない鉄アーチ橋になるのが、大正4(1914)。
 したがって、橋の下に応急的に取り付けた柱や橋脚で支えた木造吊橋の状態の橋をわたったのだろうと想像される。
Commented by てんこ at 2015-01-11 08:00 x
はずかしながら 父の筆書きの文字です
Commented by shingen1948 at 2015-01-13 16:55
素養がないので解説しなかったのですが
風景と重なる流れがあるような気がしたので
その文字の並びだけを表記していました
矢張り意図的な流れだったのですね
情報ありがとうございました
Commented at 2015-01-16 15:44 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2015-01-18 06:10
素人が口出すものではないと思うところもあって控えていたのが「水」でしょうか。
これが強調されていることです。
「あづまの山の 水色のかぜ」で、かぜの形容詞ですが、イメージ的には、当然摺上川の水もイメージしているということかなと思っていました。
by shingen1948 | 2015-01-10 18:04 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(4)