信夫の里から東屋沼を意識する②
2014年 12月 24日
今回は、図説「福島市史」で「信達盆地には、山上の五色沼と底が通じている貝沼・吾妻沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」と解説されることについて確認したことを整理していく。
「信達一統誌」の「本内邨」の項で、この貝沼の一つが以下のように解説される。
貝沼現況では、ここにその池はみつからない。
正福寺門前にあり 小さき池なり 東屋沼の移しなりとも云う 又貝沼など云う姓の人もあり 此説詳ならず
この正福寺については、先に「本内舘」跡の視点で以下のように整理している。
http://kazenoshin.exblog.jp/8048059/
この館、『信達二郡誌』には、東西2町余・南北8町余の大きな館とされているという。「貝沼の伝説地には必ず吾妻信仰がある」ということにかかわって、散歩中は、この門を入って直ぐ右手の稲荷社が気になった。寺も「稲荷山正福寺」とのことであったが、そのかかわりは分からなかった。
永正年間(1046-53)源頼義が陸奥国の豪族安倍頼時・貞任父子を攻めた際に築かれたとされる。
また、天正年間(1573-92)には、本内氏が住んでいたとされる。本内氏は伊達氏の家臣で、本内相模守は、天文の乱では、稙宗方についたという。
伊達政宗とのかかわりでは、天正8年(1589)大森城へ凱旋途中の政宗に日没した阿武隈川河畔で本内駿河が御馳走を差し上げた記録があるらしい。
「山形・宮城・福島の城郭」では、のち、伊達政宗が攻略し、落城したと紹介している。
帰り際、振り返ったらくっきりと吾妻山が見えたことが印象的だった。「此説詳ならず」とのことだが、五色沼と底がつながっているというイメージを持つのには充分説得力のある風景であるようにも感じだ。