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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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三角山の散歩⑤―井野目の三井戸④

 「井野目村人紺野伴右エ門」氏が、村の為政者だったのか文化人だったのかは分からない。しかし、紺野伴右エ門宅で行われた村の旧習からの解放儀式がなければ、この地区が近代化から大きく取り残される事になったであろうことは想像できる。
 その視点で「昭和28年録し伝説に遺す」記録を読めば、以下の手続きが読み取れる。

 まずは旧習からの解放理由だが、願掛けは150年限度でよいのに、それより100年以上続いたのだから充分だとする。もう願はとっくに外してもよかったということだ。
 そうは言っても、280年も続いた旧習を止めるには相当な勇気が必要だったろうと思われる。それで、その道の権威者が神かがりの話と搦めて村民を納得させるという方策が取られたという事なのだろう。

 次に行われたのが、山口庄右エ門重久氏墓前に村民一同が集まて、充分に祈願を行うということだ。先に整理した愛宕山参道前の墓前だろうと思う。
a0087378_6103363.jpg 更には次のような願外した後の対応まで決められていて、その対応策が浸透するのに充分時間をかけて待っている。
 願外し後は、元井野目村人相集まり、山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招いて、先祖代々の各霊の念仏講を行うというものだ。話し合いから8年の歳月をかけてようやく「昭和28年録し伝説に遺す」ということになったという事のようだ。

 この地域に念仏講が続いているという事を、伝統の継承という側面だけで捉えるのではなく、山口庄右衛門氏の偉業と大恩への感謝を先祖代々の各霊への感謝と同列に扱う念仏講になったという伝統の継承と近代化の融合と捉えるべきなのではないかなと勝手な想像する。
 そのことと観音山山頂の観音堂がかかわるのではというのが、これまた散策人の勝手な想像だ。

 その道の権威者として選ばれたと想定した石塚直太郎氏だが、ネット上で宮崎県延岡市天下町の「国指定南方古墳群1,2号墳」の2号古墳解説にその名前が登場するのを見つけた。これが「研究家として天皇御陵の発見者」と「天孫御陵発見始末」とかかわるのではないかなという想像。
 「大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています」という部分だ。
 「国指定南方古墳群1,2号墳」
 天下(あもり)神社の後方に有り現在大きな石が出ていますが、これは言い伝えによりますと村の人々が神社建設の際山を切り取った時にこの石が出てきたので石工が神社の石段として割り出そうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事を留めるように鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した等割ってはならない石であらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。
 この古墳は高さ2米80、直径東西26米50、南北12米の大きさで大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています。
 現在このお方の御神徳は棟木(むなぎ)の神であらせられます直古墳のお告げにより邇々芸尊であるとして大正12年から今日までお祭りをされている人に延岡市出北町に住まれている前田正恵という方がおられます。
 昭和51年11月吉日
 右 天下世話人会

by shingen1948 | 2014-10-31 06:11 | ◎ 水 | Comments(0)