地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿保原地蔵尊⑥

 白石市三沢の阿保原地蔵菩薩像は、圓福寺を開基した海運法印の遺言によって建立されたとのことだが、北沢又村斎藤逸平次、斎藤源三郎の両名が何故そのお姿を写して北沢又に建立させることになったのかは分からない。
 まず、いろいろな情報から、その時間的な経緯を整理する。

 真言宗熊野山圓福寺開山は、慶長19年(1614年)のようだが、ここは刈田郡三澤村陽善寺廃寺跡だったようだ。
 この寺を開基するのが海運法印で、当時18歳(慶長元年4月8日生まれ)だったという。この海運法印は、寛文7年(1667年)8月24日に72歳で遷化するのだが、その遺言によって阿保原地蔵菩薩像が建立されたということになっているようだ。
 この三澤村真言宗熊野山圓福寺は、一時廃れるようで、海運法印の死後70年を経た頃、法眼によって中興されたとの推定があるらしい。海運法印の死後70年ということは、1737年(元文2年)頃ということかな。
 その中興した圓福寺も、慶應4年・明治元年(1868年)に排寺となるようだ。

 「白石噺」の宮城野と信夫姉妹の父与太郎が、片倉家中志賀団七によって、阿保原地蔵付近の「通称大師堂の一本杉」で惨殺される話があるらしい。
 その与太郎の娘二人が、仇討ち祈願を阿保原地蔵尊に行なったとするのが、半世紀後の享保3年(1818)とのこと。
 これを西暦で逆算すると、「通称大師堂の一本杉」で惨殺が、享保3年(1718)ということになる。享保3年で逆算すると、元和4年(1618)ということになる。いずれにしても、海運法印開基の真言宗熊野山圓福寺の時代ということになる。
 西暦が正しければ、仇討ちの1818年は文化15年で、法眼によって中興された圓福寺の時代ということになるかな。

 さて、北沢又の阿保原地蔵尊建立は、明治4年という事なので、中興した圓福寺が慶應4年・明治元年(1868年)に排寺になって直ぐの頃ということになるようだ。

 経緯的には整理しても、北沢又の阿保原地蔵尊建立とのかかわりまでは分からないままだ。ただ、煙草とのかかわりはなさそうだとは思う。
 経緯的な可能性としては、海運法印とのかかわりと、元文2年頃(1737)に中興し、慶應4年・明治元年(1868年)に廃寺になった圓福寺とのかかわりが考えられそうかな。勿論、それとは全く別の理由もあり得る。
 絞り込めないのだが、三澤村の地元では海運法印が上保原縁の方との見方があるようなので、それも考慮すれば、海運法印とのかかわりの可能性が高いという見え方が自然かな。
by shingen1948 | 2014-09-23 17:46 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)