地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松裏街道⑫―戸ノ口原古戦場

 二本松裏街道を「戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋とクロスする地点まで進む。
a0087378_9342149.jpg ここで、昨年整理の「戸の口原古戦場に立ち寄る」につながる。http://kazenoshin.exblog.jp/18539424/
 「戸の口原古戦場に立ち寄る②」では、「会津戊辰戦争」の移動図から読みとれる白虎隊士中2番隊の最前線と小さな案内板にあった「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という解説との違いに戸惑っている。
 今回の散策で確認した資料に、白虎隊士中2番隊士の最前線情報を混乱させいているのが、この会津戊辰戦争」の移動図だとの指摘も見た。
 何とか辻褄を合せようとしていたが、今は、この情報で納得してしまっているところもある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18586368/ 
 「戸の口原古戦場に立ち寄る③~戊辰戦争戦死者の墓群」では、戸ノ口原古戦場―笹山」の道筋を「戊辰戦争戦死者の墓群」まで進んで整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18592458/
 ここは、戸ノ口原で戦死された会津藩士を弔う墓標と、笹山や戸ノ口原で戦死されたそれぞれの方々の墓で構成される。戸ノ口原に点在していた墓を、この一画に移したものと思われる。
 「戸の口原古戦場に立ち寄る④」では、全体的なイメージを整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18599191/
a0087378_937433.jpg 今回中心的に散策した地点は、「地形的にも戸ノ口原の低地を見渡せるこの菰槌山(こもつちやま)の地名の小高い丘付近に塹壕を掘って対峙していたらしい。白虎士中二番隊が胸壁を築いたのはその右手で、藪に覆われ自然に還りつつあるが、戊辰の役の際に築いた3重の塹壕がこの近くにあるという情報」と概括。
 ここに掲げた全体的なイメージ図に今回実際に散策して得た情報を橙色で付加した図がこれだ。

 なお、この二本松裏街道の道筋の北側が、大きくみれば大野原であり、戸の口原はその大野原の南縁ということになるようだ。昨年整理の大河「八重の桜」に描かれた会津藩の軍事訓練「追鳥狩」が実際に行われていたのは、この大野原らしい。具体的な地点は分からない。

 会津事典では、「追鳥狩」について、以下のように解説する。
 「追鳥狩」
 会津松平藩政時代の軍事演習。
 兵学の研究は、藩校日新館の武講で行なわれていたが、これは学校奉行の管轄ではなく、軍事奉行が総括していた。
 日常講習の結果を、城内三の丸で実地に演習するのを「小操練」といい、全藩をあげての大演習を「大操練」または「追鳥狩」という。
 寛政4年(1792)3月、当時の軍事奉行黒河内内揮の建言により、本郷河原で始められたのが最初。その後、藩主在国の年に、一大軍事演習として同所で行なわれてきたが、文化12年(1815)9月からは場所を大野ヶ原に移している。

 軍事演習であるから、藩士たちは伝来の甲冑を着けた武装の上、長沼流軍学に基づいた部隊編成で次々と鶴ヶ城を前日の夕刻に出城し、現地で野営しつつ夜明けを待つ。夜が明けると、法螺貝が吹き鳴らされ、全軍が鬨の声を上げて演習が開始された。
 まさに実戦さながらの部隊演習が繰り広げられた後、あらかじめ捕まえておいた雉、山鳥、兎、熊の子、狸、狐などが放たれ、兵たちはこれを敵将に見立てて追うのである。
 獲物を捕獲した藩士は、藩主の立つ「御立場」の下に行き、目付所に捕獲した獲物と姓名を自書して藩主に献上する。これを一番先に行なう「一番鳥」は極めて名誉なこととされ、藩主から褒美が与えられた。

 藩主在国の年、つまり2年に一度しか行われない行事のため、これを見物しようとする者も多く、みな藩士たちと同じように前日から野宿してこの一大時代絵巻を見物したという。

by shingen1948 | 2014-09-14 09:39 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)