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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松裏街道⑤

 白虎隊士22人が、戸の口原の戦いに利あらず撤退し、飯盛山に向けて山中を彷徨するのは有名な話だが、その時の戦いが「新四郎濠の決戦」ということのようだ。
 この戦いが石田氏のホームページで「8月23日(10月8日)の戦闘」として紹介される戦いで、大窪山を背に、新四郎濠を塹壕として戦ったことからそう呼ばれているらしい事が分かる。
 この戦いから白虎士中二番隊士が飯盛山に向けて山中を彷徨するのは有名な話につながる撤退について、案内では「戦い利あらず川上に撤退し穴切一里塚を経て穴切○○を越え飯盛山に向けて山中を彷徨したと伝えられる。」と紹介する。
a0087378_10555215.jpg その「川上に撤退し穴切一里塚を経」るという事なので、大窪山の東側の「新四郎掘」に沿って撤退するらしいことが想像できる。
 昨日最後に掲げたロープで通行を遮断する轍のある道筋の右手が、その大窪山の東側の「新四郎掘」らしいので、その写真をこちらに移動して張り付ける。

a0087378_1057932.jpg 案内板の地図をあらためて見直すと、「穴切」「穴切一里塚」「烏帽子山」がプロットされ、その「穴切」までの古い道筋を意図した図になっている事が分かる。「強清水」と表記される辺りから「穴切」までの道筋は、その近くの案内板に穴切一里塚へ至る旧道と紹介される道筋だ。
 「新四郎濠の決戦」で紹介される撤退をイメージするのには、ここに「新四郎掘」と「大窪山」を表記することで、「小坂」に向かう道筋と沓掛峠との間の目標として、烏帽子山があり、その北側に回り込んで「穴切一里塚」から白河街道に入るというイメージがつかめそうかな。

a0087378_1058167.jpg なお、「戊辰の役殉難 会津藩二二士の墓」の少し手前の足元に、この案内板を見る。本宮街道を「二本松裏街道」と読み替えるのかなとは思うが、ここで案内される旧本宮街道の道筋とその案内意図が分からなかった。

 今回は、その退路目標にした「穴切り一里塚」付近については、「街道web」「白河街道小坂」の情報をお借りしてイメージを深めることにする。(「街道web」→<街道リスト>→「白河街道」→「穴切」)
 http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/sira/13.htm
by shingen1948 | 2014-09-06 11:01 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)