地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松裏街道④

 菰槌山という小高い山の前に建つ会津藩二二士の墓の案内板を過ぎてちょっといった右手に、急ごしらえの案内板を見る。
a0087378_1015037.jpg 昨日確認した「新四郎掘」の赤井谷地の西側に沿って取水された水が、二本松裏街道の南側の水路に沿って先に見た集落の農地まで流れて行くことになる地点と思われる。

 その近くに自分から見ると不審車が止まっていて(相手から見ればこちらが不審車かも)、その赤井谷地の西側に沿う道筋には行けないようにテープが張られているという状況。
 案内されている内容を確認する。
 白虎士中二番隊 新四郎濠の戦い
 日向内記隊長とはぐれ、東の 山の○濠で西軍と戦い四人の友を失った。
○○湿原を撤退してきた16人は、篠田義三郎の指揮で此処の新四郎濠を○○にして再び戦った。戦い利あらず、津田捨蔵と石田和助が戦死した。
 敵兵の包囲から逃れ、皆は新四郎濠を辿り、穴切り一里塚方面に逃れ山中をさすらい飯盛山目ざして落ち延びて行った。(会津歴史研究会)

 新四郎濠の決戦
 新四郎掘りは約4○○○○地頭荒井新四郎義重が築いた堀である。
 白虎隊教導の篠田儀三郎の指揮で、白虎隊士22人はこの壕を防壕にして戦ったが、戦い利あらず川上に撤退し穴切一里塚を経て穴切○○を越え飯盛山に向けて山中を彷徨したと伝えられる。
 飯沼貞雄翁は、この思い出を絵師に描かせた。左の地蔵尊は不明だが、荒井村の農家が描かれている。
上に掲げられる写真の解説が「飯沼貞雄翁は、この思い出を絵師に描かせた。左の地蔵尊は不明だが、荒井村の農家が描かれている」ということらしい。石田氏のホームページに紹介される「8月23日(10月8日)の戦闘」で掲げられた同図をお借りする。
a0087378_10185965.jpg
 ただ、この荒井村が分からない。文脈から強清水の村の気がする。荒井新四郎さんの村かとも……。

 案内板では「日向内記隊長とはぐれ、東の 山の○濠で西軍と戦い四人の友を失った。」とするが、石田氏は「戸ノ口原や滝沢不動滝上流で戦死した者は、伊東悌次郎17歳、津田捨蔵17歳、池上新太郎16歳の、3人」と紹介する。
 更に「8月23日(10月8日)の戦闘」の項で「ここで、篠田小隊長は、刀を振りかざし、指揮を執る。中には弾にあたり介錯を頼む者もいた。池上新太郎、伊東悌次郎、津田捨蔵の3人が戦死、または負傷」との紹介。
by shingen1948 | 2014-09-05 10:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)