地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松裏街道③

 強清水から集落を左に右に耕地を見ながら進むと、山の切り通し風の風景になる。この辺りから先は土の道になる。
 この辺りの地形を地図で確かめると、右手に見えている高地が大窪山で、その山裾部分を二本松裏街道が通っている事が分かる。
a0087378_8454032.jpg しばらく進むと、「戊辰の役殉難 会津藩二十二士の墓」の案内板が建つ。
 その案内板には、「このあたりは菰槌山(こもつちやま)と言って小高い山になっていて、会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」と案内される。
 「会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」との案内から、この切り通し風の風景の左手の高地が、菰槌山(こもつちやま)と読み取れる。
 ここに「会津藩軍はざんごうを掘って対峙していた」と案内されるが、石田氏の解説を照らし合わせると「西軍に対峙した会津藩軍の塹壕は、この左手の高地の藪の中に3つ、この切り通しが過ぎたころのこの高地の山裾に確認できるらしい。
 また、「戊辰の役殉難 会津藩二十二士の墓」案内板の「戦死六人墓、戦死十六人墓を建て供養した」と解説される石塔も、この左手の風景の中らしいことが気になるが、今回は、このまま通り過ぎる。

 史跡の案内は、この辺りの地形についての基礎知識がある事を前提にして説明される。その当たり前とされる基礎知識を持ち合わせていないので、それを確認しながら整理することにする。
 その一つが、新四郎堀についての確認。
 白虎隊の動きについての解説では、溝に身を隠しながら移動することが解説されるが、これにはこの新四郎堀についての基礎知識確認が必要かなと思う。
 この堀は、強清水地区の水田を作る際に、東を流れる赤井川の水を利用するため、赤井谷地の西側に沿って掘られた水路とのことだ。その強清水地区の集落が、右手に見た集落で、その道を挟んだ向かい側に水田が広がる風景を見てきたが、その水田を潤す用水路ということらしい。
 「会津事典」の「強清水」の項では、万治2年(1659)荒井新四郎が村東の赤井川の水を引き(新四郎掘)、万治3年に開村。寛文2年(1662)から稲作開始」と解説されている。
 この新四郎掘が赤井谷地の湿原に及ぼす影響について、「赤井谷地の周辺は農地化され、このような用水路が掘削されたことで、湿原の水はけが良くなり、乾燥化が進んでいるという。そのため,湿原の西〜南側には潅木が進入してきており、徐々に湿原ではなくなりつつあるらしい」という評価も見る。

 このことを頭に入れてこの辺りを確認すると、この街道の南側の用水路が、赤井谷地の西側に沿って取水された水が、先に見た集落の農地まで流れていく新四郎堀らしいことが分かる。

 会津軍の兵士が身を隠しながら進んだり後退したりした溝というのは、そのようなこととかかわる溝ということでいいのかな。
 戊辰の役殉難
 会津藩二二士の墓
 戊辰の役では一六橋を渡って進んできた西軍と会津藩軍は戸ノ口原において激突した。この辺りは菰槌山(こもつちやま)と言って小高い山になっていて、会津藩軍は塹壕(ざんごう)を掘って対峙していた。やがて戦いになった。兵力に優る西軍は有利に戦いをするようになり、白虎隊をはじめ会津藩軍はやむなく後退せざるをえなかった。この戦いにおいて会津藩士には多くの戦死者が出た。
 戦後、あたりの山野に朽ち果てようとしている会津藩士の遺体を哀れに思い、近くの集落の人達が22の遺体を集め、手厚く葬り、戦死六人墓、戦死一六人墓を建て供養した。
地元の強清水では、亡くなった会津藩士を毎年ねんごろに供養している。
 平成18年10月
 会津若松市一簣町
 旧滝沢街道ふれあいまつり実行委員会

by shingen1948 | 2014-09-04 09:03 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)