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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松裏街道

a0087378_13155471.jpg 会津での用事が昼ちょっとすぎには済んだので、いつものように強清水で蕎麦を食おうと思った。そのついでに、昨年整理した戸ノ口原古戦場跡あたりまで旧道を進んでみようと思った。
 とりあえず国道294号線白河街道に入って、「沓掛峠入り口」の地点まで進み、そこを出発点とする。

  「沓掛峠入り口」に建つ「白虎隊の足跡を辿る」の案内板は、白河街道と沓掛峠のかかわり、滝沢峠と沓掛峠とのかかわりを次のように解説する。
 沓掛峠は越後街道から白河街道に至る脇道であったが、寛永4年(1627)に会津領主となった加藤嘉明公が滝沢峠を開いてこの峠を継ぎ、2代明成公は石畳を敷き街道を整備して白河街道とした。
a0087378_13163242.jpg 
 この図は、その案内板の図から、「沓掛峠入り口」から「戸の口原古戦場入り口」間のあたりを切り取った図だ。
 点線で沓掛峠と交わる道筋が示されているが、これが「旧白河街道」のようだ。
 この範囲の街道webで「二本松裏街道」と紹介される道筋と重なる部分なら、車で動けるので、家人から申し渡されている長雨で危険だから寄り道は禁止の厳重注意には違反しないはず。

 会津にいるころには、「白虎隊の足跡を辿る」ことに抵抗感があった。その抵抗感の一つが白虎隊の悲劇の悲惨さであり、もう一つがこの悲劇が戦争賛美へ活用されているという抵抗感である。

 会津で生活した期間より会津を離れて過ごした期間が長くなって、会津が故郷としての懐かしさと観光地を訪れるような気分が入り混じるようになった。昨年、戸ノ口原古戦場跡を整理したのは、その気分と大河八重の桜の視聴によるものだと思っている。
Commented by TUKA at 2014-09-03 03:39 x
本題から外れますが、
白虎隊は、西軍に押さえられた二本松裏街道を避け、烏帽子山南側の間道を通って飯盛山に辿り着いたようです。
今でも歩けるそうですが当時も今も藪道で、そのせいで隊士たちはバラバラになってしまったとのこと。
Commented by shingen1948 at 2014-09-04 09:15
情報ありがとございます。
二本松裏街道を避け始めるのが、会津藩22士墓案内板のあたりのようで、新四郎堀等とかかわりながら、大窪山の山沿いに穴切一里塚を目指すような感じかなと思って確認中です。
by shingen1948 | 2014-09-02 13:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)