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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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下舘駅付近の散策と史跡情報~ 沼尻鉄道廃線跡⑪

a0087378_10373829.jpg 赤線が沼尻鉄道廃線跡で、現県道323号線で、緑のラインが、旧県道。
 今回の会津下舘駅周辺の動きだが、沼尻方面から川桁方面に向かう際には、現県道323号線を通っている。それが紫のライン。
 川桁方面から沼尻方面に向かう際には、旧県道の道筋をたどって、県道227号線が左手に分かれる地点から、現県道323号線に出た。少し戻って、会津下舘駅や「長瀬産業組合」の建物を観察して、現県道323号線を下る。それが水色のライン。
 その図に、マホロンの「遺跡データベース検索」で示される「下舘舘跡」「下舘板碑」「円通寺跡」の位置をプロットするとこんな感じ。

 前回、「円通寺跡」にかかわりで気になる「隣松院」情報を整理したところだが、この寺、昨年整理の「大河八重の桜」や、その前に整理した「拝領妻」悲劇とかかわる「秀長寺」ともかかわるらしい。
 昨日整理の「隣松院」情報を頭に置きながら、会津若松市材木町の「秀長寺」創建情報を確認する。

 永正2年(1505)10月下旬、塩川で、葦名盛高・盛滋父子の確執による合戦がある。この時に、富田志摩守秀長という家臣が戦死するのだが、その子の右馬允時長が、天文6年(1537)に亡父の菩提を弔うため水月庵という草庵を建てる。これが、「秀長寺」の始まりだとするようだ。
 慶長10年(1605)に猪苗代の隣松院が焼失して、その水月庵に伝廓禅師が仮寓することに。
 当時、猪苗代城主であった町野左近は、領主蒲生秀行の許しを得て、この水月庵の地に寺地を加えて一宇を建立したとのこと。
 これが現在の秀長寺で、寺名は左近(当時の猪苗代城主)の父である備前守秀長の法号「龍雲院殿花陽秀長大居士」にちなんで付けられたとされるようだ。
 この慶長10年(1605)に猪苗代の隣松院が焼失して伝廓禅師が水月庵に仮寓することと「隣松院」が「円通寺跡」へ移転することとのかかわり具合が分からない。

 なお、大河「八重の桜」とのかかわりでは、慶応4年(1868)9月5日、佐川官兵衛指揮による「材木町の戦い」が秀長寺裏付近で展開。秀長寺境内には「秀長寺古戦場碑」が建つ。また、秀長寺墓域には「拝領妻」の悲劇の人笹原忠一の墓があるようだ。
 
by shingen1948 | 2014-08-31 10:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)