人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

八手山城位置情報修正(内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦)

 内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦の中で、「磐椅王国」のページに掲げられた地図をもとに八手山城の位置をプロットしたところだが読み違えたらしいので修正する。
a0087378_6334678.jpg 「川桁山の西へ張り出した尾根上」という紹介に引きずられたようだ。マホロンの「遺跡データベース検索」で表示された地図を確認すると、白津の方向に貼りだした尾根上で、もっと手前だった。
 ついでに、「会津合戦記」には、「37、建久二年(1191)耶麻郡猪苗代八手山城(白津柵)」として、「建久二年辛亥義運之孫大炊介経連築き住す。亀ヶ城と稱す又白津に柵を築く。建久二年辛亥東西十六間南北九間城代岡部弥彌太郎居る(会津古塁記)」と記されるようだ。
 ただし、「磐椅王国」のページでは、「年代は不明で『会津古塁記』には建久2年(1191)築城、亀城と称すとありますが、その形態から南北朝以降に築かれたものと考えられます。」と解説される。

 もう一つついでに、マホロンの「遺跡データベース検索」では、猪苗代町 八幡字館ノ内地内に「内野村柵跡」も記されるので、これもプロットしておく。
 「会津合戦記」には、「33内野村柵(耶麻郡)大永自天正(1521~1591)」として、「昔恵日寺之代宦小檜山丹波住す。大永自天正之頃子孫同孫六(六郎)居る(会津古塁記)」と記される。

 なお、白津の平野部一帯(白津・白村東・白村西)は、縄文土器の散布地で、猪苗代地方でも1、2に属する縄文時代中期から後期にかけての大きな遺跡で「白津遺跡」としてプロットされている。ちょっと東寄りの「川桁字林口」の「林口遺跡」、「八幡字都沢道」の「都沢道遺跡」では、調査も行われているということのようだ。

 ※調査された「林口遺跡」は、白津集落東側の畑地に立地するようだが、ここは旧石器時代の終末期・縄文時代前期の遺跡のようで、旧石器時代の石器が発掘されたようだ。「磐椅王国」のページに、「尖頭器・彫刻刀石器・スクレイバーがみられ、これらは倒木痕の堆積土中より一括して発見されていますが、恐らく当時は木の根元にデポ(埋納)として置かれていたものと考えられます」との紹介。

 今回は、沼尻鉄道廃線跡の散策だが、情報としては、会津への道・伊達政宗とかかわるので、そちらに分類しておく。
by shingen1948 | 2014-08-27 06:39 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)