内野停車場―下舘駅間 ~ 沼尻鉄道廃線跡⑦
2014年 08月 26日

実際にこちらの道筋も確かめることで、下舘村が今までの村々よりも少し大きな集落であることを感じることができたということもある。
内野村のあたりも、現県道が沼尻鉄道専用軌道跡らしいが、ここは、散策中は旧県道の道筋は意識していなかった。素直に、現県道の道筋を進み、「内野停車場」の案内を見つけて満足していたということだ。

現県道が専用軌道跡であることや旧県道の道筋が山側に回りこむ細い道筋である事を知ったのは、家に戻ってからのことだ。
案内板にあった内野村の「猪苗代盛胤の墓」も確認してみた。
まずは、内野村を「角川日本地名大辞典」で確認すると、村の構成を「化政期の家数上内野19軒・下内野9軒・大水沢新田5軒(新編会津)」と解説する。当然、内野村のこれ等の中心は、山側に回りこむ旧県道の道筋沿いであろうと想像する。その後、同誌は「鎮守は、若宮八幡宮。寺院は、大永年間小檜山六郎が開いたという曹洞宗巌松山蔵円寺。堂宇に猪苗代三十三観音第9番の札所がある。村の東部の山腹の墓地内に猪苗代亀ケ城主14代猪苗代盛胤の墓があり、墓石には平盛胤と刻印されている」との紹介。ここで猪苗代盛胤の墓にふれている。
次に、その位置情報を確かめると、猪苗代観光協会「猪苗代・磐梯」で、曹洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中の墓地らしい紹介を見たが、目印はなさそうだった。
その「洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中」だが、これが白津停車場にあった案内とかかわるらしい。

この「集落の北東の山頂にある旧八手山城」というのが、川桁山の西に貼り出した尾根上に立地する梯郭式の山城を指すらしい。「会津古塁記」には建久2年(1191)築城、亀城と称すとあるが、その形態から南北朝以降に築かれたと考えられているらしい。
「洞宗巌松山蔵円寺の南東付近の山中」というのは、その八手山城の山裾にあたる付近ということのようなのだ。その位置関係を図示してみた。
なお、ここで「旧八手山城の城主、三浦経連」氏というのが、猪苗代氏の初代であり、猪苗代盛胤氏というのが猪苗代14代というかかわりということのようだ。