地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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川桁駅に立ち寄る~沼尻鉄道廃線跡②

 昨日整理の「沼尻軽便鉄道記念碑」は、平成15年(2003)に地元有志によって駅前広場に設置されたようだ。
 この碑の裏面が、「沼尻軽便鉄道の歩み」になっていて、平成15年5月9日の日付と、記念碑設立発起人として、「沼尻軽便鉄道復興促進協議会」・「猪苗代町」・「川桁区」が名を連ねる。施行者は、「五十嵐石材店」とされる。
 その台座部分には、「沼尻軽便鉄道記念碑建立協賛者名」が、「沼尻軽便鉄道復興促進協議会」の責任のもと平成15年12月付けで記される。
a0087378_914286.jpg  これは、川桁駅前の滝見屋旅館。
 「沼尻軽便鉄道記念碑」の陰に写り込んだ建物が、老舗の滝見屋旅館であるというのは「街道web」で知った。沼尻を訪れた多くのファンがお世話になったとのことだが、その事が分かっていて写真を撮ったという事ではない。
 家に戻って確認する中でその事を知って、川桁駅前の風景を写した写真から切り取ったものだ。

 「沼尻軽便鉄道記念碑」の裏面には、以下のように「沼尻軽便鉄道の歩み」が記される。最近、石碑を見ると、刻まれている事を出来るだけ読み取ってみたくなる。
沼尻軽便鉄道の歩み
a0087378_915116.jpg 沼尻軽便鉄道は沼尻山硫黄鉱区の日本硫黄(株)の関連事業として生まれた鉄道である。
 明治40年4月岩代硫黄(株)が増資して日本硫黄(株)が設立された。
 明治41年9月耶麻軌道(株)鉄道は日本硫黄の下請けとして川桁~大原(現沼尻)間にレールを幅609㍉で、距離15.6㎞の人車軌道を敷設した。
 明治45年5月、人車より馬車に代わりレール幅762㍉に変更された。
 大正2年5月11日、日本硫黄社内の耶麻軌道部となり、一般旅客貨物の取り扱いを開始、中軸は12人客車3両無蓋車3トン、23両を所有、馬1頭が時速12㎞で1両を引いた。
 大正3年1月ドイツコッペル社製蒸気機関車2両を購入した。
 昭和20年1月1日より、日本硫黄沼尻鉄道と変更された。
 昭和21年度、貨客混合列車は年間53万人の輸送、貨物は昭和14年には5万4千㌧が最大輸送量であった。
 昭和28年、ディーゼル機関車(12㌧)が蒸気機関車に代わって運行された。
 小さな軽便鉄道は、「マッチ箱」の愛称で親しまれ、川桁、沼尻間を硫黄・木材・炭等を運搬し中の沢温泉、横向温泉の湯治客、沼尻温泉スキー場へ旅客の輸送と沿線住民の足として寄与してきたが道路の整備、交通機関の発達、社会情勢の変化に伴い、56年余の輝かしい業績と数々のエピソード残した。
沼尻軽便鉄道は、日本硫黄沼尻鉄道から日本硫黄観光鉄道、磐梯急行と改名し、観光輸送に活路を見出そうとしたが果たせなかった。
 昭和43年10月13日、最終列車が分かれの汽笛を沿線に流しながら走り去った。
 平成15年5月9日
 記念碑設立発起人 沼尻軽便鉄道復興促進協議会
                      猪苗代町
                      川桁区
 施    行 五十嵐石材店
 <台 座 部 分>
 (沼尻軽便鉄道記念碑建立協賛者名)
 平成15年12月
 沼尻軽便鉄道復興促進協議会
 この碑の写真の右手に写り込んでいるのが、川桁駅だ。川桁駅に来たのに、駅自体の写真を撮っていなかった。お粗末。
by shingen1948 | 2014-08-21 09:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)